人的資本経営や人的資本情報開示は、資本市場による規律付けの文脈で議論されることが多い。だがいかに素晴らしい人的資本戦略ストーリーを作成しても、従業員の意識や行動が変わらなければ、実際の企業価値向上にはつながらない。人的資本経営の最も重要なターゲットは投資家ではなく従業員であり、従業員が納得し評価する投資や施策を実施する必要がある。
最初に、人的資本理論で論じられてきた投資を促す2つの異なるメカニズムについて説明しよう。
一つは「摩擦」の大きい労働市場で企業が従業員を囲い込むことにより生じる投資インセンティブ(誘因)である。摩擦とは労働市場における競争を阻害し効率的取引を妨げる諸要因だ。例えば、日本では職務やスキルが標準化されていないことから、情報の非対称性(労働者の生産性を外部企業が観察できないこと)やサーチコストが他の先進国よりも高いとみられ、年功賃金や遅い昇進といった日本的人事慣行と並んで、企業間移動を抑制する。
このように摩擦が大きいと転職による賃金増が見込めず離職率が下がるので、人的資本投資の期待収益率が上がり投資が増える。この状況を「囲い込み」パラダイムと呼ぶことにする。
もう一つの重要なメカニズムは、人的資本理論の基礎を築いたゲーリー・ベッカー元米シカゴ大教授が1962年の論文で示した。
労働市場に摩擦がなく完全競争的であれば、企業は生産性に見合った賃金を払わねばならないので、研修のリターンを享受できない。そのため一般的技能を身につける研修を無料で提供することはない。だが訓練期間中、生産性を下回る低い賃金支払いにより研修コストを回収できれば、企業は一般的研修を提供できる。そのうえで他社よりも高い生涯所得をもたらす研修機会を提供できる企業に労働者が集まるので、人材獲得競争が投資インセンティブをつくりだす。
この前提が成り立つ世界を「採用競争」パラダイムと呼ぼう。完全競争的市場で人的資本投資を契約に含められれば、投資は効率的(生涯所得を最大にする水準)となることが知られる。
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この2つのメカニズムのどちらが有効に働くかは、(1)労働市場の摩擦の大きさと(2)企業が研修機会の提供にどの程度コミット(約束)できるかに依存する。かつては労働市場の摩擦が大きく、企業が採用時点で研修の提供を約束することはまれだった。囲い込みパラダイムを基に、労働市場の摩擦が大きい日本のような国で人的資本投資は大きいと信じられた時期もあった。
だが日本企業の総人件費比でみた人材育成投資は欧米企業平均を大きく下回るとの調査や推計が多い。すなわち囲い込みパラダイムでは現状を説明できていない。近年の2つの大きな変化が、労働市場の摩擦を前提にした図式を大きく変えつつあると筆者は考える。
まず、以下に列挙するデジタル技術の発達などで前述の条件(1)の労働市場の摩擦は着実に低下している。少子化による人手不足も加わり、労働市場は一段と競争的になりつつある。
第1に大企業が導入したタレントマネジメントシステムは個々人の経験やスキルの情報を集約し従業員に伝え、リンクトインなどのSNSは経験・スキル情報を可視化することで、情報の非対称性を低下させる。
第2にジョブ型雇用は職務やスキルの標準化をもたらし、人材仲介業者によるレジュメ作成サービス、転職レコメンドツール、スカウトサービスの拡大は職務経験情報の標準化や自動化につながり、マッチング効率の改善に寄与する。仲介手数料引き下げを通じサーチコストを下げるだろう。
第3に日本企業の賃金カーブのフラット化が進み、賃金の年功的性格が低下してきているため、転職で生涯賃金が大きく下がる人の割合は低下している。
もう一つの変化は、上場企業を中心に人材育成方針や施策内容の開示が広がっていることだ。開示はアカウンタビリティーを高め、前述(2)の条件「育成投資への経営陣のコミットメント」を高める。開示情報を前提に労使双方が行動するようになれば、契約に書くことと変わらない。これは関係的契約と呼ばれる。
かつて非現実的と考えられたベッカーモデルの前提に、現実が近づきつつあるのだ。摩擦の存在を前提にした囲い込みパラダイムから、他社より良い成長機会を提供し人材を獲得しようとする採用競争パラダイムへのシフトが起きている。
囲い込みパラダイムでは、摩擦が低減するほど離職可能性が上がるので人的資本投資が減る。一方、採用競争パラダイムでは、企業特殊的人的資本の形成などを通じ長期的雇用関係の下で超過利潤を期待できれば、摩擦が低減するほど投資を約束する関係的契約が形成・維持され、競争を通じて人的資本投資が増える可能性を高める(図参照)。
こうした説明は企業を投資者として見たときの違いだが、労働者を投資者として見るとどうだろうか。労働市場の摩擦が大きいときには、スキルの習得に賃金が強く反応しないので、労働者の自己研さん意欲は低い。他方、労働市場の摩擦が低減し、かつスキルの可視化が進むと、スキル習得が市場賃金の上昇につながるので自己研さん意欲は高まる。摩擦の低下は労働者自らの投資も高めるのだ。
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人工知能(AI)の活用が進むにつれ、多くの職で職務内容が変わり、職種転換を必要とする労働者の増大が予想される。タイムリーなリスキリング(学び直し)が企業や国の競争力に影響を与えるため、人的資本投資意欲を高める労働市場改革が喫緊の課題だ。労働市場の摩擦低減とさらなる人的資本情報開示を目指す政策が考えられる。
第1に職務やスキルの標準化を加速すべきだ。政府による職業情報提供サイト(日本版O-NET)や職業能力評価基準など既存のデータ活用を促進しつつ、民間が進める標準化事業を助成することが望ましい。
第2にマッチング技術や自動化技術の開発への支援も必要だ。ただし技術変化は仲介コストの削減をもたらす一方、人材仲介業の規模の経済を高めるので、大手人材仲介業者の独占や反競争的行為が生じないよう政府の監視も欠かせない。
第3にキャリア自律性の確立が自己研さん意欲を高めるため、企業は従業員の希望をより反映した異動配置の仕組みを導入する必要がある。先進企業では社内公募制度、フリーエージェント制度、マッチングアルゴリズムなどの活用が広がっている。こうした先進事例を他社に伝える広報の努力を産学官で担うべきだ。
最後に一層の人的資本情報の開示を奨励すべきであり、開示義務項目の追加も適宜検討すべきだろう。例えば人的資本投資の総人件費比率などが候補となる。
人的資本投資は実物投資よりも収益率が高いことを最近の研究は示しており、投資インセンティブを高めることを意図した労働市場の変革が求められている。
2024年8月26日 日本経済新聞「経済教室」に掲載