正社員の権利・義務変容加速 危機が変える会社と個人

大湾 秀雄
ファカルティフェロー

新型コロナという外的ショックが企業と社員の関係性にどんな影響を与えているか関心が高まっている。日本の伝統的雇用システムの老朽化が論じられて久しいが、コロナ危機前から大企業は働き方改革と併せて人事制度の改革に取り組んでいた。日立製作所が掲げたジョブ型雇用の導入は一例だ。コロナ危機でその動きが加速するとの見方もある。危機で何が変わったかを整理するとともに、将来のあり方を展望したい。

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日本の雇用モデルの問題点として挙げられてきたのは、年功制と遅い昇進である。この2つは日本の「正社員」を対象とする関係的契約の重要な柱だった。

年功制は後払い賃金の形態ととらえたエドワード・ラジア米スタンフォード大教授の論文で、その経済合理性が解明された。若い時は生産性以下の賃金を受け入れる代わり、壮年期を過ぎて生産性を上回る賃金を受け取る。離職コストを高めることで、継続就業意欲、企業特殊的技能の習得、会社存続のための労使協力を促進できる。このインセンティブ(誘因)効果を実現するため、雇用保障、内部昇進、遅い昇進といった補完的制度が出来上がった。

だが年功制の効用は、社員の高齢化による人件費増大、企業特殊的技能の価値低下、グローバル競争激化による雇用保障の提供難、キャリア採用増加、海外人事との不整合により大きく低下した。多くの企業が賃金カーブのフラット化、職能給から職務給・業績給への移行により年功色を弱めてきた。しかし年功的な処遇は堅固に残っている。日本特有の遅い昇進が女性管理職不足、リーダー不足の元凶だと論じられてきた。

コロナ危機で増大した在宅勤務は、日本型雇用モデルの問題をさらに顕在化させている。在宅勤務を支援する情報通信技術(ICT)ツールに不慣れな中年層の生産性および労働意欲は押し下げられ、この層の賃金と生産性のギャップは一層拡大しているのではないか。また対面での意思疎通を重視してきた管理職層は部下を十分に支援できず、組織全体の生産性を低下させているかもしれない。

筆者は黒田祥子・早大教授、奥平寛子・同志社大准教授らと在宅勤務調査を実施した。全社員対象のアンケートを実施した製造業2社の緊急事態宣言前後での生産性低下を年代別に比較したところ、週3日以上在宅勤務を実施したグループでは、50代を中心に生産性低下の傾向がみられた(図参照)。

図:在宅勤務の生産性への影響
図:在宅勤務の生産性への影響

一方でコロナ危機により多くの企業で新たな気づきと学びがあった。まずICTツールの導入が急速に進み、コミュニケーションのオンライン化、事務処理の簡略化により働き方改革が加速している。業務プロセスの効率化、自動化、移動時間の節約が生産性向上につながることが期待される。

2つ目に多くの従業員が在宅勤務の利点に気が付き始めた。前述の調査の分析では、集中力の高まりによる生産性押し上げ効果が最も高いという結果が出た。これまで仕事と育児・介護を両立させるための制度とみられていたが、今後も継続すれば、欧米での先行研究でも多くの人が最適と感じる週1~2日の在宅勤務をする人が増えるだろう。

3つ目に人的資本投資の重要性が強く認識された。在宅勤務拡大の影響で、管理職に要求されるコミュニケーションやコーディネーションのスキル、ITリテラシー(知識)の重要性はさらに増している。再雇用や定年延長で65歳まで働く社員が増え、中高年層を含め社員のICTスキル向上を絶えずアップデートする機会の提供は欠かせない。若年層のキャリア意識を高め専門的知識を取得させることも、ジョブ型雇用へのシフトが進む中で重要だ。

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ではポストコロナ時代に構築される新しい雇用モデルとはどんな形態なのか。

まず「賃金=生産性」という経済学の教科書に近い姿に報酬体系が変われば、関係的契約の対象を正社員だけに限定する必要性が低下する。同一労働同一賃金の法制度が浸透する中で、様々な働き方を包含する対象のより広い関係的契約が形成されるだろう。正社員は無期雇用でフルタイムという契約上の位置づけ以上の特別な意味合いを持っていたが、「期待された権利と義務」としての含意が薄まっていくのではないか。

第2に関係的契約の変容といっても、信頼関係なしには暗黙の契約は成り立たないため、雇用保障は今後も重要な柱であり続ける。ただし事業再編の活発化が予想されるなか、社員の能力を自社活用できない場合も増え、譲渡や転職先での雇用を含む幅広い雇用継続努力にとどまらざるを得ない。訴訟リスクを避け転職後の収入減を補えるよう解雇の金銭補償ルールを国がリードして整備すべきだ。

長期雇用へのコミットメント(関与)の下で企業特殊的技能の獲得を背景に、擦り合わせ技術など横の連携や知識移転をベースに獲得した強みは、今後も日本企業の競争優位性の源泉だ。

3つ目に社員のキャリア形成重視の観点から、異動配置は人事部主導で全社的な人材配置をする伝統的な手法から、より分権的な配置へ変わっていくだろう。

筆者の観察では2つの模索が指摘できる。1つは社内公募制を積極的に活用して、個人の自由な意思を尊重した異動を広げる試みがある。キャリア採用募集との併用が可能となるため、中途採用率の高い企業で活用されるだろう。2つ目は、本人の希望を把握した管理職が異動により深く関わることだ。上司からの提案をベースにマッチングアルゴリズム(計算手順)に従って社員を振り分ける方法が生まれてくるのではないか。

最後に年功制や遅い昇進への決別、自分でキャリアを決める会社というのは、より競争的で自立が求められる環境でもある。そこで懸念されるのは、一つはメンタルヘルスへの影響、もう一つは情報が流れない風通しの悪い組織に陥る危険だ。在宅勤務者の増加もこの2つのリスクを高める。

解決策としては、第1に会社が従業員の健康によりコミットすることだ。日本企業は社員の勤怠情報や健康情報を豊富に保有しており、より効果的な健康投資を提供できる。採用難やESG(環境・社会・企業統治)投資の観点からも、健康経営投資を通じた社員の効用改善に取り組む企業は増えるだろう。第2に管理職の対話力向上を通じて部下を支援できる上司を育てることだ。コーチングやキャリアアドバイザーの研修を管理職に提供する企業が増えることも予想される。

新しい雇用モデルでは人事部の役割も変わらなければならない。採用配置など人事権の多くは管理職層へ移譲される一方、人事部はその意思決定を専門的知識とデータ分析で支援するマネジメント層のビジネスパートナーとなるべきだ。そして会社と個人は年功制を通じた縛りではなく、より対等な関係性の中で、長期的な雇用関係から生じる経済的レント(利潤)を追求し配分する仕組みを模索し続けることになるだろう。

2020年9月1日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2020年9月15日掲載

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