生産性と実質賃金のデカップリング

森川 正之
特別上席研究員(特任)

大幅な賃上げが続いているが、物価上昇率を補正した実質賃金はいまだ上昇トレンドにない。こうした中、政府は「物価上昇を上回る賃上げの普及・定着」を経済政策の柱に掲げ、1%程度の実質賃金上昇を目標にしている。実質賃金を高めるための基本は生産性向上のはずだ。しかし、日本の実質賃金上昇率は経済全体の労働生産性上昇率を大幅に下回っている。生産性と実質賃金の動きが乖離(かいり)しているのだ。

だが、企業データを見ると、生産性が高い企業は賃金水準が高く、生産性が高まった企業の賃金上昇率は高いという強い関係がある。マクロ経済とミクロの企業レベルで違いがあるのは、生産性上昇の効果を減殺する賃金押し下げ要因があるからだ。具体的には、①交易条件の悪化②労働分配率の低下③賃金構造の変化――が考えられる。

第一は交易条件の悪化、つまり日本が輸出する財・サービスの価格が、輸入する財・サービスの価格に対し、相対的に低下し続けてきたことである。交易条件の悪化は実質為替レートの円安化と表裏一体で、実質所得の海外への流出を意味する。経済全体の生産性上昇に見合った実質賃金上昇が起きない大きな要因である。この点は何人かの研究者が指摘しており、ほぼコンセンサスといえる。

第二の労働分配率低下、つまり国内総生産(GDP)に占める労働所得の割合の低下は、世界的に注目されている。その要因として指摘されるのは、IT(情報技術)・ロボットなど省力化技術の普及、グローバル化による低賃金国との競争激化、労働市場での大企業の買い手独占力増大、労働組合の交渉力低下などだ。今後は人工知能の影響もありうる。しかし、労働分配率の動きは定義や計測方法で異なり、少なくとも日本における被雇用者の賃金にはほとんど影響していない。

第三は賃金構造の変化だ。付加価値で大きなシェアを持つ大企業の賃上げ率が相対的に低い場合、経済全体の賃金上昇率は各企業の賃上げ率の平均よりも低くなり、マクロ経済の実質賃金上昇率を押し下げる一因となる。背後にあるのは企業規模間賃金格差の縮小トレンドである。「経済財政白書」も指摘している通り、この20年ほどの間、大企業より中小企業の方が、賃金上昇率は高くなっている。

中小企業の賃金上昇率が高かった理由としては、労働力不足や最低賃金上昇の影響を強く受けるため賃上げの必要性が高かったこと、勤続年数が長くなったことなどが考えられる。一方、大企業の賃金上昇率が相対的に低かった理由としては、女性や高齢者の増加など従業員の性別・年齢別構成の変化、年功賃金カーブのフラット化、柔軟な働き方や雇用安定など、賃金以外の労働条件を重視する傾向の強まりなどがありうる。

交易条件や賃金構造の変化が、今後も実質賃金上昇率を押し下げ続けるかどうかはわからない。結局、実質賃金の持続的上昇のためにできることは、イノベーションや労働者のスキル向上などを通じて、押し下げ要因を上回る生産性上昇を実現することだ。

2025年10月23日 日本経済新聞「エコノミスト360°視点」に掲載

2025年11月4日掲載

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