揺らぐ国際貿易秩序 米主導のIPEF 難航も

川瀬 剛志
ファカルティフェロー

ロシアのウクライナ侵攻は、第2次世界大戦後の国連中心の安全保障秩序に動揺をもたらすとともに、国際貿易秩序のあり方も大きく変える可能性を秘める。

米国と同盟国は対ロ通商を制限し、ロシアから世界貿易機関(WTO)協定上の最恵国待遇(MFN)を剝奪した。さらに米国の対ロMFN停止法は、WTOからのロシア放逐に努めるよう大統領に指示する。ウクライナ情勢が著しく好転しない限り、ロシアの国際貿易体制からの切り離しが恒常化するだろう。

もっとも、安全保障に起因する多国間貿易体制の分断は、既にトランプ政権下の米中対立でも顕在化していた。米国による多様な対中措置の背後には、中国の軍産融合技術開発を巡る技術覇権争い、およびウイグルや香港での事態を踏まえた人権・民主主義を巡る価値対立がある。

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イエレン米財務長官は4月の講演で、他国に重要資源や技術を地政学的レバレッジ(テコ)として利用されないよう、法の支配などの価値共有や安全保障の点で信頼あるパートナーとの間で「自由にして安全な貿易」を目指すと述べた。

さらにイエレン氏は、ウクライナ情勢に伴うエネルギー・食料危機、米中対立、コロナ禍でのサプライチェーン(供給網)寸断を踏まえ、信頼ある国々でサプライチェーンを構築する「フレンドショアリング」を提唱した。つまりWTOが信奉する新自由主義から転換し、効率重視のサプライチェーンからの脱却を示す。

2021年秋以降、米国はそのための制度構築に精力的に取り組んできた。その中核は、22年5月に東京で立ち上げられたインド太平洋経済枠組み(IPEF)だ。まずは日本、オーストラリア、インド、韓国、シンガポールなど、予想を上回る13カ国が参加した。首脳らの共同声明によれば貿易など4つの柱で構成されるが、個々の柱の内容は具体性に乏しい(表参照)。

表 インド太平洋経済枠組み(IPEF)の4つの柱

また21年12月の民主主義サミットでは「輸出管理と人権イニシアチブ共同声明」を採択し、人権抑圧に利用される先端技術(監視カメラなど)の輸出管理について、米国ほか4カ国が協力することで合意した。

2国間でも21年秋以降、日本と「日米商務・産業パートナーシップ(JUCIP)」や「経済版2プラス2」を設け、半導体サプライチェーン、高速通信規格「5G」や人工知能(AI)の輸出管理などが検討されている。米韓、米台でも同様の枠組みが設けられた。

さらに日米豪印の「Quad(クアッド)」、米英豪の「AUKUS(オーカス)」といった安保寄りの枠組みでも、半導体、AI、量子コンピューターなど戦略物資・新興技術を念頭に、サプライチェーン構築や技術協力が議論されている。

欧州連合(EU)も同様に米国との貿易技術評議会(TTC)を設立し、21年9月にはピッツバーグ宣言を採択した。同宣言は輸出管理、投資審査に加え、AI利用・開発と人権・民主主義との適合性、新興技術貿易や強制労働廃絶にも言及する。22年5月の第2回会合では、半導体産業でのサプライチェーン寸断の早期警戒メカニズム設立や協調的な投資促進、ウクライナ情勢を踏まえた食料危機対応でも合意した。22年4月には、EUはインドともTTCの設置に合意した。

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こうしたイニシアチブが進めるフレンドショアリングにより、同盟国間でのみ先端技術の標準化やサプライチェーン構築が促進され、また戦略物資・技術の優先的な融通や貿易管理・投資審査によるそれらの囲い込みが進むことになる。

イエレン氏の発言にはロシアはもとより中国も排除する意図がうかがえる。だが他のアジア諸国とも価値共有と安全保障をインド太平洋の新貿易秩序の基礎とすることには困難が伴う。米国が「インド太平洋戦略」のパートナーとして重視する東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国は、一連の対ロ制裁や国連での対ロ決議に消極的だ。米ASEAN首脳会合声明でも、ロシアの名指しを避けた停戦要求が精いっぱいだった。

それどころか、22年秋の20カ国・地域(G20)サミット議長国のインドネシアは、米国が反対するプーチン・ロシア大統領の出席に前向きだ。Quadの一角であるインドも、ロシアの国防支援の必要性を公言する。中ロとの距離感、法の支配や人権などの価値共有はインド太平洋でも一様でなく、イエレン氏が描く「多数の信頼できる国々」へのフレンドショアリングの展開は容易ではない。

またモノ・サービスの市場アクセスや投資の自由化を伴わないIPEFでは、そもそもサプライチェーン強靱(きょうじん)性の実現にも限界があり、途上国・新興国には参加のメリットが乏しい。米国内でも実現可能性や意義を疑問視する声は小さくない。岸田文雄首相も、現状では「実利は今後の前向きな協力の議論から生まれる」と説明するのがせいぜいだ。

バイデン政権は、大統領貿易促進権限(TPA)が失効中の今、議会、特に民主党左派が反対する市場アクセス約束を回避しつつ、労働者重視の姿勢から、IPEFを通じてインド太平洋地域での高い労働・環境基準の設定をもくろむ。しかし「いいとこ取り」では、当初参加の13カ国の合意さえおぼつかない。

この状況で日本がなすべきことは、アジアに寄り添ったインド太平洋でのサプライチェーンの強靱化だ。岸田首相が大型連休中のASEAN歴訪で対ロ圧力への理解と協力を引き出したように、長年のASEANとの信頼関係を基礎に、米国との価値共有の橋渡しをして、米主導の「自由にして安全な貿易」の枠組みを主体的に支援すべきだ。

加えてIPEFの基礎として、環太平洋経済連携協定(TPP)の拡大で地域の結集を図るべきだ。フィリピン、インドネシア、タイなどASEAN諸国に加え、韓国の加入も支援すべきだ。ロシアの脅威が顕在化した今、韓国は東アジアの米国の同盟国として重要であり、WTOや自由貿易協定(FTA)実施で十分な実績もある。米国の復帰は今回の首脳会談でも岸田首相がバイデン大統領に要請したが、無論不可欠だ。

さらにEUのTTCにみられるように、フレンドショアリングはインド太平洋を超える。英国加入がTPPの「西方拡大」の重要な第一歩となった今、EUの加入を真剣に検討すべきだ。通商担当の欧州委員を務めたマルムストローム氏も、既にその可能性に言及している。22年5月の日本と欧州諸国やEUとの一連の首脳会談では、ウクライナ侵攻後インド太平洋と欧州の安全保障が密接に関連することで一致しており、今後両地域間のサプライチェーン接続は一層重視される。

もっとも、デジタルや投資など、EUのFTAとTPPのルールにはかい離がある。正式加入にこだわらず、関税撤廃や貿易円滑化を中心に市場アクセス合意からなるEU・TPP連携FTAなど現実的なアプローチを模索すべきだろう。

2022年5月26日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2022年5月31日掲載