中国はこの24日、東京電力福島第一原発のいわゆるALPS(Advanced Liquid Processing System-多核種除去設備)処理水の海洋放出を理由として、福島及びその周辺地域のみならず、日本産水産物の全面輸入禁止に踏み切った(注1)。香港、マカオも部分的にこれに追随している(注2)。その意図について、神田外国語大学・興梠一郎教授は、不動産不況や失業率悪化に関する国内の不満のガス抜きを目的に日本に批判の矛先を向けることに加え、「日米韓の緊密化や日米の半導体輸出規制に対する一種の経済制裁」であると指摘しており(注3)、今回の措置がいわゆる経済的威圧(economic coercion)であることを示唆する。
これに対して日本政府は措置の即時撤廃を求めているが、岸田総理をはじめ、主だった政権・与野党幹部は、中国の措置の科学的根拠の必要性を指摘している(注4)。政府内には「外交で解決を」、あるいは「専門家どうしの冷静な議論を」という声もあるが(注5)、それにとどまることなく、今こそWTO紛争解決手続に本件を付託すべき時だと筆者は考える。
MPIAと経済的威圧
その理由は、日本のMPIA(多数国間暫定上訴仲裁アレンジメント)(注6)参加だ。周知の通り、WTO紛争解決手続をつかさどる上級委員会は米国の強い反発によって委員の欠員が補充できず、2019年末以降その機能が停止している。そのため、多くの紛争案件はパネル判断の後に、審理が行えない上級委員会に空上訴(“appeal into the void”)され、紛争解決が妨げられる事態に陥っている。
これを解決すべく、EUを中心に、オーストラリア、ブラジル、カナダ、中国など主だったWTO加盟国は2020年4月にMPIAを締結し、現在26カ国・地域のWTO加盟国がこれに参加している(ただしインド、韓国やASEAN諸国などは不参加)。MPIA締約国は、締約国間の紛争に関するパネル報告書に不満がある場合、上訴ではなくこのMPIAに基づく仲裁へ付託することに合意し、実質的に上訴と同等の審理を受けることができる。
日本も遅ればせながら今年(2023年)3月にこのMPIAに加入を決定したが、その目的はEUやカナダなど良識派のWTO加盟国と連携し、上級委員会不在の中でもルールの支配による自由で多角的な通商体制を維持することにある。特に米中の狭間でパワーゲームを展開できない日本としては、こうしたシステムの維持自体が国益にかなうのは言うまでもない。しかしそればかりではなく、中国が参加するMPIAであればこそ、中国の経済的威圧をルールの支配によって封じ込める重要なツールを手に入れたことになる(注7)。
日本は早速その恩恵にあずかっている。中国との日本産ステンレス鋼AD税事件(DS601)では、日中双方がMPIA締約国であったからこそ日本勝訴のパネル報告書が中国によって空上訴されることなく、またMPIA仲裁さえ行われることもなく、解決に至ることができた(注8)。他にも中豪間の大麦ダンピング防止税事件(DS598)も、両当事国の合意によるパネル手続の終了に至った(注9)。そのほか、オーストラリアとのワインダンピング防止税事件(DS602)、EU(リトアニア)との物品・サービス輸出入事件(DS610)など、同じく一連の中国による経済的威圧と見られる措置も、WTO紛争解決手続に付託されている。これらの紛争から明らかなように、MPIAがあればこそ、紛争が空上訴により出口のない隘路に陥ることなく、上級委員会の機能停止にもかかわらず、依然WTO紛争解決手続が中国の経済的威圧に対して奏功するツールのひとつたり得ている。
中国の措置に科学的根拠はあるか
今回の中国の対応については、岸田総理以下政府関係者が指摘するように、禁輸措置の科学的根拠の有無が争点になる。WTO衛生植物検疫(SPS)協定によれば、食品安全を理由にした輸入制限措置は、①科学的根拠・科学的証拠に基づくこと(2条2項)、②Codex等が定める国際的基準に適合するか少なくともこれに基づくこと(3条1項及び2項)、そして③輸入国が敢えて国際基準より厳しい水準の措置を取る場合はこれを危険性評価に基づいて取ること(5条1項)などが求められる。
今回の件では主にALPS処理水の安全性が議論されているが、中国が水産物の輸入を止めているかぎり、問題は処理水自体ではなく水産物自体の安全性である。そこで中国は、水産物の放射性物質含有にいかなる安全基準、つまりSPS協定3条3項でいうところの「適切な保護の水準」(appropriate level of protection-ALOP)」を設定しているか、それが例えばICRP(国際放射線防護委員会)の勧告にある一人当たり1mSv/年の被曝量(食品中の放射性物質で言えば、Codexが設定する1000Bq/kg)なのか、あるいはそれ未満なのかを明らかにしなければならない。日本は基本的にこのCodex基準の10倍厳格な100Bq/kgを採用しているが、それでも中国は日本産品の輸入を全面禁止していることから、中国のALOPは②にもかかわらず、国際基準よりはるかに厳しいと予想できる。そうであれば、中国は③に合致することが求められ、その危険性評価も①に適合しなければならない。
③については、中国の危険性評価は、日本産水産物にどの程度放射能が残留するのか、それをどの程度摂取したら人体にいかなる危険が及ぶのか等を①に従って科学的証拠に基づいて示し、その検討結果がなぜ禁輸措置を正当化できるのかを説明しなければならない。また、中国は今回ALPS処理水の海洋放出を理由に禁輸を導入しているが、だとすれば、ALPS処理水が日本海域でどのように、またどの程度水産物の放射能汚染を進めるかを明らかにしなければならない。
しかも、日本はIAEAの調査を受け入れ、海洋放出計画の安全性を確認している。特にIAEAの包括報告書では、ALPSによって汚染水中のセシウム137等はほぼ除去され、除去できないトリチウムの濃度も、放出前にWHOの飲料水安全基準の7分の1に当たる1,500 Bq/Lにまで希釈されることが認定されている。その結果、報告書では、海洋放出が人体や環境への影響は無視できる程度であることが認定された(注10)。
もちろんこれが唯一の危険性評価ということではなく、中国は独自に危険性評価を行うことができ、その科学的根拠の選択も中国の専権に属する。そして、その根拠も科学的に信頼できるものであれば、学界の多数意見や通説でなくともよい(注11)。しかし、こうしたIAEA報告書に比肩しうる信頼性のある独自の危険性評価を示なければ、中国はSPS協定適合的に禁輸措置を維持できない。
さらに、香港は今回の措置は「予防的(precautionary)」であると説明している(注12)。これはSPS協定5条7項の暫定措置を念頭に置いた発言と思われるが、暫定措置は危険性評価を行うのに必要な科学的証拠が質・量ともに不足している時にしか取れない(注13)。そもそも今回の海洋放出は2011年の3.11に伴う事故のように突発的に起きたものではなく、日本が2021年4月に海洋放出の基本方針を発表してから計画的に行われたものだ。その直後に日本はIAEAのレビューを受け入れており、この間5回もの報告書が順次公表され、現時点では包括報告書もある(注14)。更に、韓国は既に独自に調査団を日本に送り、日本の海洋放出計画は国際的基準に合致しているとの結論を公表しており、今回も海洋放出そのものは支持しないものの、科学的に問題はないとしている(注15)。これらのことは、中国、香港、マカオには危険性評価を行う材料が十分にあることを示唆している。
韓国・放射性核種事件(DS495)でも、パネルが韓国の複数の措置のうち科学的証拠の不足を認めたのは3.11直後に取った2011年の措置についてのみだった。それ以降の措置については、東電の資料やナショナルジオグラフィック誌の記事等を挙げ、危険性評価に十分な科学的証拠が利用可能であったと指摘している (注16)。
中国の措置は対日差別ではないのか
さらに、国際基準よりはるかに厳しい日本の安全基準を満たして輸出される水産物を全面禁輸しなければ中国の安全基準(ALOP)を充足できないとすれば、当然中国は国産・輸入品を問わず、さまざまな食品を通じた類似の被曝リスクについて同様の厳しい基準を適用しているはずだ。そうでなければ、なぜ日本産品のみ輸入を禁止するのか、中国が表向き説明するような国民の健康保護の観点から説明がつかない。国産及び日本産以外の水産物や、水産物以外の食品には緩い被曝リスク安全基準を設定し、他方で日本産水産物にのみこのような厳しい基準を適用するとすれば、それは「恣意的又は不当」な区別や差別であり、「国際貿易に対する偽装した制限」でしかない(SPS協定2条3項、5条3項)。
中国は国内の原発から日本の6倍以上とも言われるトリチウムを放出していることが指摘されており、また中国以外の原発からも同様に福島第一原発を大きく上回るトリチウムが放出されている(注17)。この事実を踏まえ、日本とこれらの地域の状況がどのように異なり、その結果中国国内や他の地域の産品には課さない厳しい措置をなぜ日本産品にのみ課すのかを、中国は明確に説明しなければならない。
韓国水産物事件の敗訴を超えて
政府内には本件の対中提訴に躊躇もあるだろう。日本はかつて同じく福島第一原発から漏洩する放射能による汚染を理由とした韓国の水産物輸入制限をWTO提訴したが、この韓国・放射性核事件では上級委員会は日本の主張を容れたパネル報告書を全面的に覆した(注18)。今回、少なくとも現時点ではWTO提訴の声が政府内から強く上がらないのは、その苦い経験のせいかも知れない。
しかし、同事件での上級委員会の判断は理解に苦しむ部分も少なくなく、上級委員会はパネルの不備を指摘することにより、低線量被曝の危険性と通商措置の関係という機微な問題の判断を巧みに回避した特殊な事案と見るべきだろう(注19)。たしかにパネルにおける主張や中間報告書の検討において上級委員会に判断回避の余地を残した点で、政府の詰めの甘さは否めないが、韓国の措置の過剰な貿易制限性と差別性に焦点を当てた訴訟戦略自体は誤りではなかった。日本は既にこの敗訴から多くを学んだはずであり、トラウマを乗り越えて中国に対峙すべきだろう。
繰り返しになるが、米中のようなパワーゲームを展開できない日本としては、経済的威圧に対峙するにあたりルールの力を借りることは不可欠であり、またそのことが日本の主張の正当性を国際社会において高めることになる。しかも、WTOでは中国は一貫して国際ルール形成の「制度に埋め込まれたディスコースパワー」(制度性話語権)を重視していることがうかがわれ、MPIA加入も、また昨今のCPTPP加入申請も、その延長上に位置付けられる(注20)。つい最近でも、中国が主導するBRICS首脳宣言は、二審制のWTO紛争解決制度の機能回復と速やかな上級委員の欠員指名を強く求めている(注21)。中国が本件で敗訴し、パネル・MPIA仲裁の判断を無視するとすれば、こうした自身の方針と矛盾することになる。そうであれば、日本はこれを利用しない手はない。
たしかにWTO提訴は時間を要するが、短期的な生産者の救済は、既に明らかにされている東電による補償や政府による販路拡大支援など即効性のある措置で対応すべきだ(注22)。本件のWTO紛争付託は、中国の経済的威圧にルールの力によって毅然と対応することによって、安定的で予見可能な市場環境を提供することにより、生産者にむしろ中長期的な利益をもたらす。特に今回の措置は、経済的威圧としては中途半端であるばかりか、むしろ科学的検証なしにこのような措置を取ることで国産も含めた水産物離れと、チャイナリスクを警戒する日本企業の中国離れを助長する点で、中国にとっても望ましくない結果をもたらすおそれが指摘されている(注23)。そうであれば中国も振り上げた拳の下ろし時を探っているであろうから、WTOへの紛争付託が解決の契機になる可能性もある。
以前、ある中国の専門家から、なぜ日本はMPIAに加入しないのか、ルールの支配の下で議論しよう、と得意げに言われ、無意味な対米追従でMPIAに加入しない我が国に忸怩たる思いを抱いたことがある。しかし我々も今やMPIAに加入した。日本が本件をWTO提訴することにより、中国が標榜するルールの支配に対する真の姿勢を試す時が来た。