WTOに法の支配を取り戻す―日本のMPIA加入と空上訴対抗措置の導入―

川瀬 剛志
ファカルティフェロー

2022年6月27日、経済産業省の産業構造審議会通商分科会不公正貿易政策・措置調査小委員会(委員長:木村福成慶應義塾大学教授)において、「WTO上級委員会の機能停止下の政策対応研究会・中間報告書」の取りまとめが報告され、同日公表された。わが国はWTOを中心とした多国間通商体制における法の支配を重視してきたが、それが近年米中の一方主義、そしてWTO上級委員会の機能停止により動揺している。今回の提言はこの危機に瀕する多国間通商体制の法の支配を回復すべく、①EUを中心とした上訴代替手続合意への参加、②いわゆる空上訴(後述)を行うWTO加盟国に対する対抗措置の導入につき、政府に検討を促すものである。

この報告書には、筆者のような法学者のほか、経済学者、政治学者、また経済界からも有識者の参加を得て構成した研究会において、これらの政策オプションについて幅広くその得失を議論した結果が反映されている。筆者は座長として取りまとめに当たる機会に恵まれた。以下、日本の通商政策の大きな転換点となる可能性を秘めた本報告書のメッセージについて、簡単に紹介したい。

MPIAによる「法の支配」の回復

2019年末にWTO上級委員会の機能が停止し、2年半が過ぎた。米国は、上級委員会の司法積極主義的はWTO協定の解釈を超えて新しいルールを創造するものであり、本来の権限を超えていると批判する(いわゆる“overreach”)。その結果、2017年から任期切れで順次生じる欠員補充のための委員指名を米国が阻止し、上級委員会は委員不在、機能停止に追い込まれた。以後、パネルの判断に不満な紛争当事国が上訴する権利は残ったが、上訴したところで、空の上級委員会で審理が開始される見込みはない。よって、上訴により紛争が無期限に未解決で留め置かれる「空上訴(appeal into the void)」が発生し、この2年半で20件を超える案件が「塩漬け」に陥っている。

より深刻なのは、この間にWTOへの紛争付託件数が激減していることである。WTO発足以来2019年までは年平均22〜23件の紛争が付託されているが、2020年は5件、2021年も9件にとどまっている。確かに空上訴で紛争解決の途が閉ざされてしまう可能性が高いのであれば、徒労に終わるWTO紛争をわざわざ提起するインセンティブは失われるのも致し方ない。

こうした法の支配の崩壊を憂えたEUがリーダーシップを発揮し、2020年4月に有志国が上級委員会の機能停止の間代替的な上訴手続に合意する多国間暫定上訴アレンジメント(Multi-Party Interim Appeal Arbitration Arrangement、以下「MPIA」)を締結した(注1)。MPIAには現在25カ国・地域が加入しているが、EUのほか、豪州、ブラジル、カナダ、中国、メキシコ、シンガポールなどが含まれる。他方、米国はもちろん、インド、韓国、イギリス、ASEAN諸国、そして日本自身もまだ加入していない(注2)。

WTOにおける紛争解決手続を定めた紛争解決了解(DSU)25条は特に目的を定めない柔軟な仲裁手続を規定しているが、MPIAはこれを利用して上訴手続に代替する仲裁を行う。つまり、第一審のパネル判断に不満のある紛争当事国は、上級委員会への上訴に代えて、これをMPIAによる仲裁に付託し、上級委員会で行われるような審査を受けることになる。寄って、MPIAの手続も基本的に従来の上訴手続を準用するが、一部米国の上級委員会批判を受け入れ、特に上訴審理の迅速化を促す手続上の工夫を施し、上級委員会改革を先取りしている。

むろん、MPIAは最終的かつ完全な解決策ではない。しかし、米国はこの数カ月間ようやく他のWTO加盟国と上級委員会問題について議論すべく重い腰を上げたが、議論の本格化には程遠い。6月のWTO第12回閣僚会議は実に6年半ぶりに閣僚宣言を出すことに成功したが、そこでは2024年までに完全に機能する紛争解決手続の実現を目指すことで合意した(注3)。しかし、直後のWTO紛争解決機関(DSB)会合でも米国は必ずしも改革に積極的でない姿勢を示し(注4)、加えて中・EUとも上級委員会の役割や在り方が共有されておらず、改革の行方は見通せない。こうしている間にも空上訴が堆積し、WTO紛争解決手続の実効性と信頼性がいっそう低下すれば、多国間通商体制の法の支配は失われてしまう。

また、日本にとっても、MPIA加入によって、たとえ暫定的であっても、多国間通商システムに法の支配を取り戻すこと以外、残された選択肢はない。過去、上級委員会の手続で日本は最も恩恵を受けてきた国であることは間違いなく、MPIAによる司法的な手続の回復は国益にかなう(注5)。また日本は経済力の点からも、政策的思想としても、米中のような大規模市場を背景にした一方主義によるパワーゲームを仕掛ける選択肢はない。

そもそも日本はなぜこれまでMPIAに参加しなかったのだろうか。いわく、トランプ政権が「中国・EU協定」と呼び、批判する(注6)MPIAへの参加はあたかも米国から離反し中国にくみするかの如くとらえられる、また、トランプ政権からバイデン政権に代わって米国がもっと早期に上級委員会改革に乗り出すのを待っていた等々、さまざまな理由が取り沙汰されている。しかし上記のように一方主義が選択肢にないわれわれは、WTO体制の法の支配の維持について、そもそも米国とは利害が一致しない。上級委員会改革に腰の重い米国の意向を気にするばかりでは、日本の通商利益は他国の保護主義的措置によって損なわれるいっぽうで、その救済はなおざりにされてしまう。

実際、すでに日本は空上訴によって実損をこうむっている。韓国・ステンレス棒鋼ダンピング税事件(DS553)、インド・鉄鋼製品関税事件(DS584)では、いずれも申立国の日本に有利なパネル報告が出たにもかかわらず、被申立国に空上訴され、紛争は解決を見ない。加えて、すでに中国・ステンレス鋼ダンピング税事件(DS601)が進行中であり、このままではやはり勝訴しても中国に空上訴されるおそれがあるが、これを回避するには中国同様MPIA に加入するしかない。

特に対中貿易依存度の高い日本としては、中国の不公正貿易慣行に対抗する政策ツールとして、WTO紛争解決手続は不可欠だ。中国はおおむねこれまでの上級委員会のパフォーマンスに満足しており、それゆえMPIAに参加している。加えて、中国はWTO加盟、そして今後はCPTPP加入を通じ、国際レジームにおけるディスコースパワー(「制度性話語権」)の拡大を目指しており(注7)、こうした点から中国によるMPIAの判断の尊重がある程度期待される。にもかかわらず日本が参加しないことは、対中通商政策の有力なオプションをみすみす放棄することに他ならない。実際、EUは台湾問題を背景とした対リトアニア通商制裁措置(DS610)、豪州は新型コロナウイルス発生源調査要求に端を発するワインや大麦に対するダンピング税・相殺関税(DS598、DS602)といった、中国の経済的威圧が疑われる措置も、MPIAを活用した実効的な紛争解決を期待し、次々にWTOに提訴している。

空上訴対抗措置発動の制度整備を-MPIAの実効性担保のために-

さらに今回の報告書は、今後日本も空上訴対抗措置を導入する可能性も検討している。空上訴対抗措置とは、文字通りパネル報告書の空上訴によって紛争解決を妨げる相手国に対して対抗措置を発動することを指す。すでにEUは2021年2月にこうした制度を導入しており(注8)、ブラジルもこれに続いている。

上記の韓国、インドの例を見れば分かるように、仮に日本がMPIAに加入しても、相手国が未加入であれば、容易に空上訴が行われてしまう。そのためには、対抗措置発動の制度を備えることにより、相手国にもMPIA加入あるいは同様の上訴代替手続への参加、またはその他の建設的な紛争解決にコミットさせることが、MPIAの実効性担保の前提となる。例えば、トルコ・医薬品事件(DS583)においては、トルコはMPIAに未加入だが、MPIA見合いの上訴代替仲裁手続に同意した。トルコがあえて上訴代替仲裁に同意した理由は必ずしも明らかではないが、EUの対抗措置もその一因であろう。

1970〜1980年代、例えば半導体輸出問題など、日本は米国の1974年通商法301条による一方的な対抗措置に苦慮し、それゆえWTO紛争解決手続による司法的な通商紛争解決を重視してきた。その日本がもし一方的な対抗措置に訴えることになれば、それは日本にとっては大きな方針転換であり、慎重論は少なくないだろう。

しかし、ここで強調しておきたいのは、空上訴対抗措置は、当時の米国や昨今の米中のような一方主義とは、本質的に異なる点である。空上訴対抗措置は、自国に有利な結果をもたらすために政策変更を相手に迫るものではなく、あくまでWTO紛争解決手続に基づく法の支配を取り戻すことを目的とするものである。相手国措置の除去は求めず、あくまで手続が正常なトラックに戻れば対抗措置は発動されない。

具体的な対抗措置の発動も慎重に行われなければならない。相手国との十分な協議と適切な時間的猶予を経たにもかかわらず空上訴が発生し、政策対応のオプションが尽きた時に発動が許されるような制度設計であるべきだろう。さらに日本もまた米国流の一方主義にかじを切ったと思われないよう、こうした制度趣旨を通商パートナーに丁寧に説明する必要もある。

しかし、MPIAのような代替的な手続があるにもかかわらず、空上訴の濫用でコストなしに保護主義が無条件に維持できる現状を看過することは、WTO体制による法の支配を著しく弱体化させる。その発動は慎重であっても、そのような「やり得」を許さない制度を備えることは、この状況下において日本の国益にかなうものであると同時に、最善ではないが、WTO体制による法の支配を取り戻すのに必要な対応と言わざるを得ない。

日本の経済安全保障としてのWTO 体制による法の支配

経済安全保障の重要性が取り沙汰される昨今、自由貿易はこれと対置する概念ととらえられがちだ。特にフレンド・ショアリング(friend-shoring)(注9)の発想が進めば、一部有志国間での戦略物資・技術の囲い込みが進み、自由貿易体制の侵食が懸念される。

しかし、再三強調するように、米中のようなパワーゲームが選択肢にない日本にとっては、米国を中心に同盟国との関係を強める一方で、市場や調達先を多角化する余地を残し、また自由で無差別な貿易・投資が法の支配によって保証される多国間体制の維持が不可欠となる。日本は、資源・食料の調達も市場も自国内で完結でき、かつカナダ、メキシコという友好国に挟まれた米国とは、安全保障環境が決定的に異なる。船橋洋一氏は地経学の視点から、こうした米国を安全保障の黒字国、逆に日本を赤字国と呼ぶ(注10)。2022年6月、氏が主宰するアジア・パシフィック・イニシアチブ(API)設立10周年記念イベントにおいて、氏と鈴木一人東京大学教授(今回の報告書取りまとめのメンバーでもある)とのポストウクライナの地経学をめぐる対談を拝聴する機会に恵まれたが、その席でも両氏共に安全保障の赤字国である日本にとっての多国間通商体制による法の支配の重要性、さらにその文脈で上級委員会危機にも言及されていた。

このことは他でもない、日本政府がよく認識しているはずだ。例えば、先に成立した経済安全保障推進法は、その90条において、経済安全保障とは安全保障優先でなりふり構わない通商阻害的な措置の導入を意味するのではなく、前提として日本の国際約束の誠実な履行を妨げないことに留意する姿勢を明示している。また、2022年5月の日米首脳共同声明においては、自由で公正な経済ルールに基づく多角的貿易体制の重要性を認識し、WTOを含む国際枠組みによる経済的威圧への対応がうたわれている(注11)。再び船橋氏の言葉を借りるなら、「世界は自ら助るものを助く」のであって、それは何も一方的な力の行使だけではない。日本の置かれた状況からすれば、まさにMPIAや空上訴対抗措置を通じた多国間通商体制における法の支配の回復に動くことこそが、「自らを助く」ことに他ならない。

この報告書を受けて、経産省をはじめ、政府一体となって迅速にこれらの政策オプションの実現を図ることを切に望む。

脚注
  1. ^ 協定全文はMPIA加入国のWTO通報に付属している。JOB/DSB/1/Add.12 (Apr. 30, 2020).
  2. ^ 詳細は以下のサイトを参照。Multi-Party Interim Appeal Arbitration Arrangement (MPIA), Geneva Trade Platform (last accessed July 1, 2022).
  3. ^ MC12 Outcome Document Adopted on 17 June 2022, ¶4, WT/MIN(22)/24, WT/L/1135 (June 22, 2022).
  4. ^ Members Welcome MC12 Commitment to Address Dispute Settlement, WTO (June 30, 2022).
  5. ^ 川瀬(2019)、川瀬(2020)。
  6. ^ Shea: U.S. Opposes Use of WTO Budget for Interim Appellate Plan, Inside U.S. Trade`s World Trade Online, June 12, 2020.
  7. ^ 渡邉ほか(2021)。
  8. ^ Regulation (EU) 2021/167 of the European Parliament and of the Council of 10 February 2021 amending Regulation (EU) No 654/2014 concerning the Exercise of the Union’s Rights for the Application and Enforcement of International Trade Rules, 2021 O.J. (L.49) 1.
  9. ^ ある国が同盟国や友好国など近しい関係にある国に限定したサプライチェーンを構築することを指す。詳細は例えば以下を参照。Transcript: US Treasury Secretary Janet Yellen on the Next Steps for Russia Sanctions and ‘Friend-shoring’ Supply Chains, Atlantic Council, Apr. 13, 2022.
  10. ^ 船橋(2022)。
  11. ^ 日米首脳共同声明「自由で開かれた国際秩序の強化」5頁(2022年5月23日)。
参考文献

2022年7月1日掲載