やさしい経済学―産業政策の新潮流

第7回 社会変革が長期的便益に

安橋 正人
コンサルティングフェロー

産業政策における国家の役割として、「市場の失敗」を是正することだけで十分なのでしょうか。このような問題提起をしたのが、英ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンのマリアナ・マッツカート教授です。

マッツカート教授は、著書「企業家としての国家」の中で、イノベーション力で官は民に劣るという通念に異議を唱えます。過去の歴史をみれば、民間企業に先立って国家が積極的にリスクをとり、新たな市場を創造・形成してきたというのが、同氏の主張です。

一例が米アップルのiPhoneです。このスマートフォンは、インターネット、全地球測位システム(GPS)、タッチスクリーンなどの技術を搭載しています。民間企業の商品としてパッケージ化されたこれらの技術は、国防総省や全米科学財団などの公的資金による研究開発や政府調達に支えられてきました。

国家がイノベーションで大きなリスクを負い、便益が民間部門に集中していることから、国が株式や知的財産権などを通じて相応のリターンを得るべきだと、大胆な提言もしています。

マッツカート教授は、公共的に望ましい方向へ市場を創造・形成する方法として、「ミッション志向型」産業政策を提唱します。ここでいうミッションとは、特定の産業や企業を選んで保護することではなく、社会として変革すべき大きな方向性を指します。

「プラスチックを海から取り除く」はその一例です。このような経済・社会課題を達成するために、政府と民間が協働して多様なプロジェクトが生み出されることが期待されています。

ミッション志向で課題が解決されるためには、政策設計を適切に行えるだけの公的部門の組織能力を育成することが不可欠です。評価指標として、長期的な社会的便益も含める必要があるかもしれません。

この政策には、政府が適切なミッションを設定できるのかといった批判や、政策の効果についての実証的な裏付けが十分に得られていないとの評価もあります。しかし、産業政策のあり方を根本的に問い直し、日本も含む各国の政策形成にも影響を与えています。

2026年8月10日 日本経済新聞「やさしい経済学―産業政策の新潮流」に掲載

2026年9月10日掲載

この著者の記事