やさしい経済学―大学進学率と賃金格差

第5回 人的資本仮説

川口 大司
ファカルティフェロー

大卒・高卒間の賃金格差動向に関する長期的な日米の違いは、大学進学・卒業率の長期時系列の相違である程度説明できることを示してきた。時期により違いはあるが、そもそも日米とも大卒労働者の方が高卒より35~60%も高い時間当たり賃金を得ている。

より長い教育を受けた人が高い賃金を得る説明について、経済学には主に2つの仮説がある。1つは教育を受けることで労働者の生産性が高まるという「人的資本仮説」である。もう1つはもとより高い能力を持った労働者が自分の「能力」の高さをアピールするために高い教育水準を得るという「シグナリング仮説」である。前者によれば教育は労働者の生産性を高めるが、後者に従えば教育と労働者の生産性には関係がない。

そもそも「能力」の高くない人々も大学に行くようになり、大学卒業の価値が落ちたことが賃金格差問題の緩和に寄与していると考える向きもあるだろう。それは暗黙裏にシグナリング仮説を支持しているのかもしれない。

2つの仮説に関し多くの研究が蓄積され、人的資本仮説の重要性が支持されている。歴史的に人的資本仮説が登場した背景には、一国の経済成長を説明する際、教育水準の向上が重要な役割を果たしているとのマクロ経済学者による発見があった。一方、シグナリング仮説だけでこのマクロレベルの変数関係を説明するのは難しい。また「能力」のシグナリングだけなら、知能テストで好成績を収めるなどより安価な手段でシグナルを発すればよく、なぜ4年間も学費を払って所得機会を犠牲にして大学に通うという高価なシグナリング手段が用いられるのか説明がつかない。

またシグナリング仮説が正しいなら、高い教育水準と高い賃金の相関関係の背後には、高い「能力」が備わっていることになる。米国の研究の多くは、知能テストの成績などを用いて、教育、賃金、能力の3者には一定の相関があるものの、能力が高くなくても教育と賃金の関係性が強いことを示している。

また義務教育の年限が延びた、近くに大学ができたなど、「能力」と無関係な要因で教育年数が延びても賃金が上昇することが知られている。日本でも大阪大学の作成したデータを用い、立命館大学の安井健悟准教授と神戸大学の佐野晋平准教授が「能力」のかわりに両親の学歴や中学3年時の成績などの変数を用いた研究を行った。これらの変数を考慮すると教育年数と所得の関係は3割程度弱まるが、それでも強い相関が残るという。

2010年9月20日 日本経済新聞「やさしい経済学―大学進学率と賃金格差」に掲載

2010年10月15日掲載