5月20日開催の「新しい資本主義実現会議」で、その提言の主軸に人への投資を据えるという方向性が明らかになった。具体策の取りまとめでは2点について検討を深める必要がある。
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第1に労働者のスキル形成のあり方だ。特に労働者のスキルは学校教育と職場での訓練の双方で形成されるため、その役割分担について検討する必要がある。
不足しているIT(情報技術)エンジニアの育成を例にとって考えてみよう。冒頭会議の論点案では「時代の変化に応じた学部の再編」が指摘されている。求められるIT人材が工学部で育成される純粋なITエンジニアなのか、既存の理工系、経済経営系などの分野に新しいIT技術を応用できる専門家なのかを明らかにする必要がある。現状認識により、学部間の再編なのか学部内の再編なのかが変わってくるだろう。
学校教育と職場教育の切り分けに関しても、大学で教えるのはデータ分析の基礎となる統計学・計量経済学・機械学習の基礎にとどめるのか、様々なプログラミング言語を用いた実装まで身につけさせるべきかという点も整理が必要だ。
民間企業からは大学が適切な教育をしていないという批判が常にある。だが大学は各分野で膨大に蓄積された知識を体系的に若い世代に伝えるという使命を持ち、その目的を果たすためにカリキュラムを組み、必要な単位を認定し、卒業させる。カリキュラムが少しずつしか変化しないのは、大学で教授される知識が過去からの積み上げという特性を反映したものだ。
分野によっては教室で学んだ基礎的な知識を実務に応用する方法を体系的に教えることは有用だが、すべてを学部に押し込むのは無理がある。むしろ専門職大学院への進学率を高めるべきだろう。
企業が訓練機会を提供しようとしても、人工知能(AI)スキルのような汎用性のあるスキルについては、社員が他の企業に引き抜かれてしまうため、投資費用を回収できないと考える向きもあろう。実際に伝統的な労働経済学はそう考えてきた。だが近年の研究では、労働市場は非流動的で、そこまで激しい人材の引き抜きは行われていないとの議論がエビデンス(証拠)ととともに展開されている(注1)。
このとき、企業が労働者に対しスキル投資をすると賃金上昇を上回る生産性の上昇が実現する「賃金圧縮」といわれる現象が発生し、企業は投資費用を回収できるようになる(注2)。
冒頭会議の松尾豊委員提出資料には「一部の人材派遣会社ではAIをはじめとしてITスキルを学ぶ機会を提供し人材が提供できる付加価値が向上している」との記述がある。民間企業がスキル投資をして、その投資費用を回収している事例だと考えられる。米国のテクノロジー企業でも、大学を卒業していない労働者を雇用し、訓練してプログラマーに養成するといった事例が報じられている(注3)。
労働市場の非流動性は、労働者の交渉力を低下させ賃金を抑制しかねない一方で、企業負担による人材育成を促進する利点もある。民間企業は新たなスキル需要に即応する強いインセンティブ(誘因)を持つため、大幅な人材不足が懸念される分野の人材育成に当たっては民間企業の力を適切に生かしていく必要がある。
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第2に育成した人材をどう配置し活用するかだ。
経済協力開発機構(OECD)が実施する国際成人力調査(PIAAC)によれば、日本に住む人々の読解能力や数理的思考力の平均スコアは非常に高い。一方で日本の労働生産性は低い。読解能力を横軸、労働生産性を縦軸にとったグラフを作成すると、読解力が高いほど労働生産性が高いという大まかな傾向がみられる(図参照)。だが日本は高い読解力にもかかわらず、労働生産性は低い水準にとどまっている。
この図は高い能力を持った労働者が、その能力を発揮できていないという日本の問題を浮き彫りにする。この状況を放置すれば、どんなに人に投資してスキルを身につけさせても、それが効率的に利用されない。
特に著しいのは女性の能力の過少利用だ。鳥谷部貴大・東大特任研究員と筆者の研究によれば、日本では女性は男性と同程度の読解力を持ちつつも、男性の半分程度しか仕事で使っておらず、OECD諸国の中で男女差が最も大きい(注4)。
スキルの高い女性が能力をフルに発揮できない状況は、根強い性別役割分業意識、差別的偏見、子育て支援の不足、税制・社会保険制度といった様々な要因が複合的に作用し、多くの女性が短時間の有期雇用に就かざるを得ないことに起因すると考えられる。
日本では過去20年間にわたり実質賃金上昇がみられない。女性の就業率が向上したものの、女性の賃金が低いため、就業者に占める女性比率が上がるほど平均賃金が下がるというメカニズムが作用した。鳥谷部氏、川田恵介・東大准教授と筆者の共同研究では、2000~17年の男女計の時間当たり実質賃金は6.1%下がったが、うち4ポイント分は女性の労働力参加が進んだことによるとの結果が得られた(注5)。女性の就業率向上は望ましいが、その多くが短時間かつ有期契約で働き賃金が低いことが問題だ。
既婚女性の多くが短時間就業を選好するのは、103万円の壁や106万円の壁と呼ばれる税制、社会保険制度のゆがみも一因だ。政府は雇用形態間の不合理な待遇格差を是正し、最低賃金引き上げで女性の低賃金問題を解消しようとしてきた。しかしながら、時間当たり賃金を上げるほど、壁にぶつからないよう人々は労働時間を減らすというジレンマが顕在化する。
「全世代型社会保障構築会議」の議論の中間整理は、106万円の壁についても「最低賃金の引き上げによって、解消されていくものと見込まれる」と指摘する。しかしながら、そのロジックとエビデンスは明らかではない。民間企業への介入を強める労働政策には限界があり、税制・社会保険制度が生み出す矛盾を解消する政策対応を避けて通ることは難しいだろう。
こうした壁の解消には、配偶者(特別)控除の縮小や社会保険の適用範囲拡大が必要になる。これらの措置は実質増税となるため、低所得世帯の負担増を緩和するような給付を同時に導入せねばならない。財務省や厚生労働省を中心とした省庁横断的な制度的な調整が重要で、その実施に当たってはデジタル情報の活用も求められる。またこれらの税・社会保険制度は家族の中での役割分担に影響するだけに、制度変更は人々の価値観を揺さぶり機微に触れる問題となる可能性もある。よって丁寧なコミュニケーションも必要だ。
誰もが目をそむけたくなる難問だが、歴史を振り返ると、日本は曲がりなりにも税と社会保障の一体改革や介護保険の導入など時代の変化に応じた政策対応を進めてきた。新しい資本主義実現会議の出す結論が、新たな政策対応を促す契機となることを期待したい。
2022年6月3日 日本経済新聞「経済教室」に掲載