ノーベル経済学賞に米3氏 「自然実験」で因果関係推定

川口 大司
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

2021年のノーベル経済学賞は3人の米経済学者が受賞することになった。

うち半分は労働経済学の実証分析への貢献で、米カリフォルニア大バークレー校のデービッド・カード氏に贈られる。残る半分は労働経済学に深く関係した計量経済学の方法論への貢献で、米マサチューセッツ工科大(MIT)のヨシュア・アングリスト氏と米スタンフォード大のグイド・インベンス氏に贈られる。

3人に共通する貢献は、個人レベルや個別企業レベルのデータから変数間の因果関係を推定するための方法論を確立し、その方法論を様々な労働経済学上の問題に適用してきたことだ。

経済学者が通常使うデータにより原因から結果に至る因果関係の存在を導き出すことは難しい。経済データで原因として注目する事柄が、結果とは独立に決まらないためだ。自然科学者は実験で原因を人為的に操作することで、結果への影響を観察して因果関係をとらえるが、経済学者はそれができないことが多い。

カード氏とアングリスト氏、2人の指導教員だったオーリー・アッシェンフェルター氏、2人の共著者だったアラン・クルーガー氏など、米プリンストン大に在籍していた労働経済学者は、経済データから因果関係を導き出すための手法として「自然実験」と呼ばれる手法に基づく研究を精力的に進めた。これは社会制度や歴史的な偶然から、あたかも原因が操作されたかのような状況を用いて因果関係を推定する手法だ。

例えば米国では制度上の理由から10~12月生まれは1~3月生まれより義務教育期間が長い場合が多い。それを自然実験として教育が所得に与える因果関係を推定し、教育年数の増加は所得を増加させるとの結論を導いた(図参照)。

1年の遅い時期に生まれた人は教育年数が長く所得も高い

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カード氏の主要な貢献とされるのが、1994年にクルーガー氏と出版した最低賃金の雇用に対する影響を推定した研究だ。

最低賃金の引き上げは貧困対策として支持されるものの、雇用を減らしてしまうとの懸念も指摘される。そのため最低賃金と雇用の関係に労働経済学者は強い関心を寄せていた。だが最低賃金は雇用情勢とは独立に決まらず、景気が良いときに引き上げられる傾向があり、因果関係の推定は難しいと考えられてきた。

両氏は問題解決のため、ペンシルベニア州東部と同一の経済圏に属するニュージャージー州で、92年に最低賃金が引き上げられたことに注目した。低賃金労働者が多いファストフード店の雇用変動を調べると、多くの経済学者の予想に反して、最低賃金が引き上げられたニュージャージー州の雇用はペンシルベニア州東部に比べ若干増えていた。

一方、アングリスト氏の主要な貢献とされるのが、ベトナム戦争への従軍経験が所得に与える影響を推定した90年の研究だ。

退役軍人への適切な補償を考えるうえで従軍経験が所得に与える影響を推定することは重要だが、従軍経験の有無は稼得能力とは独立に決まらない。体力のある人が軍に志願する場合や、民間での就職が厳しい人が軍に志願する場合もあるためだ。そこでアングリスト氏はベトナム戦争期間中の徴兵が一部くじ引きで行われたことを自然実験として、従軍経験が所得を低下させることを示した。

同氏は自らの研究結果が示すのは、くじで選ばれた徴用兵の中の因果効果であり、志願兵の中での因果効果は含まれないことにも気づいていた。従軍の所得への因果効果が徴用兵と志願兵では異なることを前提とした議論だが、当時の計量経済学の枠組みではこの状況をうまく取り扱えなかった。この問題を統計学者のドナルド・ルービン氏が開発した「反実仮想」と呼ばれる枠組みを導入し解決したのがインベンス氏とアングリスト氏の共同研究だ。

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受賞対象の3氏による研究は後続の研究に2つの意味で大きな影響を与えた。

一つは実証経済学全般に与えた影響だ。3氏が主唱した自然実験を用いて因果関係を推定するという方法論は、すべての経済学分野での実証研究の方法を塗り替えた。もはやどのような仕組みで因果関係が推定されているかを明確に議論せずに、実証経済学の論文を書いても主要な学術誌には掲載されなくなった。

もう一つは因果効果の多様性に注目した計量経済学の手法の開発に対する影響だ。アングリスト氏とインベンス氏の研究以前には、原因が結果に与える影響は一定という仮定を置くことが一般的だったが、両氏の研究がきっかけとなり、因果効果の多様性を前提にした計量経済学の枠組みが発展を遂げることになった。

カード氏の研究は政策論争にも発展した。前述の最低賃金の引き上げは雇用に影響を与えないという結果は、賃金が上がれば労働需要量は減るとする経済学者の通念を打ち破るものであり、多くの批判を招いた。

特に2000年のカリフォルニア大アーバイン校のデービッド・ニューマーク氏と米連邦準備理事会(FRB)のウィリアム・ワッシャー氏のコメント、およびそれへの反論は活用データや推定手法の変更により結果が変わりうることを明らかにした。質の高いデータと適切な推定手法を用いることの重要性を示した。

理論面でも、最低賃金の引き上げが雇用を減らさない理由として、現状の労働市場では、企業が賃金を決める力を持つ状態(モノプソニー)が成立しているとする仮説が注目された。仮説の検証も進んでいる。

またキューバ難民のフロリダ州マイアミへの大量流入を自然実験に用いて、移民流入が自国民の賃金抑制にはつながらないことを報告した1990年の論文でも、労働供給の増加は賃金を抑制するという労働経済学者の通念を否定した。米ハーバード大のジョージ・ボルジャス氏が「労働需要曲線は右下がりだ」と題する論文を発表するなど強い批判にさらされた。

最低賃金も移民も政治的にセンシティブな課題だ。カード氏が引き起こした論争はイデオロギー論争とは独立に、理論の拡張、データの質の向上、実証分析手法の洗練など労働経済学の科学としての深化を促した。カード氏の抑制の利いた科学者としての姿勢に負うところが大きいといえる。

3氏のノーベル賞受賞は実証経済学における質の高いデータへのアクセスの重要性も物語る。アングリスト氏による90年のベトナム戦争従軍経験の論文は、社会保険の行政記録情報を利用していた。また近年、カード氏はカリフォルニア大バークレー校のパトリック・クライン氏らとドイツやポルトガルの行政記録情報を用いて、労働市場での企業の役割を分析している。

プライバシーを保護しながら行政記録情報や政府統計の個票を学術利用することは、政策改善につながるのみならず、経済学ひいては広く社会科学の進歩に貢献するための必要条件だ。日本が先進国の一員として国際的な学術発展に貢献するにあたり、行政記録情報や政府統計の学術利用の促進はその基盤となる。

2021年10月20日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2021年10月28日掲載