コロナ禍の影響を考慮して2020年の最低賃金の引き上げは限定的なものでした。
中小企業を中心に最低賃金の引き上げは経営を圧迫し、ひいては廃業や雇用の喪失につながるため慎重に検討されるべき、との声は依然として強いものがあります。
一方で、最低賃金の引き上げによって労働者の賃金水準を向上させ生活を改善させるべきとの主張があり、最近は、最低賃金の引き上げによって非効率的な企業の退出を促し、生産性を向上させよとの主張も強くなされています。
最低賃金の引き上げは雇用を奪うのか、あるいは雇用を減らさず賃上げを実現するのか、さらに企業の生産性を向上させうるのかについては、エビデンスに基づく理論的な整理が必要であり、そのうえで日本における過去の最低賃金引き上げで何が起こったのかについての整理が必要です。
今回、川口大司RIETIプログラムディレクター・ファカルティフェロー/東京大学大学院経済学研究科・公共政策大学院教授から、望ましい最低賃金政策についてお話を伺いました。(2021年5月18日収録)
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最低賃金全国平均1000円へ
2021年5月14日の経済財政諮問会議で菅義偉総理は、「最低賃金全国平均1000円」を早期実現する考えを示しました。現在の最低賃金は加重平均で902円であり、軒並み100円ずつ上げれば実現できる状況です。
最低賃金には2種類あります。1つは都道府県ごとに設定される地域別最低賃金、もう1つは産業別最低賃金です。しかし、産業別は役割を終えつつあると考えられており、地域別最低賃金が注目を浴びることが多くなっています。地域別最低賃金は、東京都の1013円が一番高く、一番低いのは792円の秋田・鳥取・島根・高知・佐賀・大分・沖縄県となっています。大都市は最低賃金が高いのですが、最低賃金が低い都道府県は比較的地方部が多くなっています。今日の発表では、どうすれば全国平均1000円を実現できるのかを考えてみたいと思います。
最低賃金の決定方法
最低賃金は多くの労働政策と同様、審議会で決められています。公益委員と労働者の代表と使用者の代表が集まり、最低賃金の上げ幅を決めるのです。まず、中央最低賃金審議会が行われ、47都道府県をA~Dの4ランクに分け、7月の終わりごろをめどにランクごとに上げ幅の目安を示します。これを受けて地方最低賃金審議会が開かれ、都道府県の実情をさらに踏まえながら微調整が行われ、毎年10月の頭から半ばごろ、都道府県別の新たな最低賃金が施行されます。この中で、最低賃金引き上げの主因になるのが中央最低賃金審議会の目安です。ほぼ毎年のパターンは、労働者代表が最低賃金の引き上げを求め、使用者代表はそれに反対し、落としどころとして公益委員の意見が尊重され、目安額が決まる形です。
日本の最低賃金はエビデンスに基づかずに決まっているという指摘もあるのですが、何のよりどころもなく目安の金額を出すわけにもいかないということもあって、厚生労働省が賃金改定状況調査を行っています。この結果に基づいて長年にわたり目安額が決定されてきました。この調査は、30人未満の事業所が対象で、各都道府県の県庁所在地とその他の2地域からランダムに事業所を抽出して調査票を配ります。調査票がユニークなのは、前年6月と今年6月の賃金状況について同じ労働者に尋ねている点です。ですから、同じ労働者の賃金が平均でどれだけ上がったのかを見ることができます。平均賃金上昇率をA~Dランクに分けて報告している表が第4表と呼ばれるもので、伝統的には第4表の数字が目安に極めて近くなる形で最低賃金が決まってきました。
これについては福岡大学の玉田桂子教授が論文を書いていて、要するに小規模企業の賃金引き上げの実態を踏まえて最低賃金も上げるというルールに従った、非裁量的な政策決定がなされてきたといっても過言ではないでしょう。一方で、近年の政権の最低賃金引き上げの意向を受け、賃金改定状況調査の賃金上昇が1~2%に収まっている状態でも、中央最低賃金審議会がやや多めに目安を出している状況が定着しつつあります。特に2016年ごろから、毎年3%以上の目安の引き上げが行われています。
労働政策は公労使の3者構成の審議会で決められていますが、この決め方が変化しつつあることは最近指摘されているところです。例えば、働き方改革関連法案です。労働時間規制や有期パート労働法制などを取り上げても、政権中枢で政策が大枠で決まり、それが労働政策審議会に戻ってきます。最低賃金に関してもそのような傾向が見られると思います。
地方の最低賃金は本当に低いのか
このように裁量的に政治で決めていく形になると、説明責任が発生します。それを果たすことがエビデンスに基づく政策決定になります。では、早期に全国平均の1000円を目指すために地方の最低賃金を上げていけばいいと考えたときに、地方の最低賃金は本当に低いのかというと、地方の賃金水準を考慮に入れて検討する必要があります。賃金構造基本統計調査という、100万人以上を対象にした極めて大規模な調査が毎年行われているのですが、この調査では従業員数10~99人の事業所で働く人や短時間労働者を抽出しています。なぜなら、最低賃金で働いている方は基本的に小さな企業で働く方やパート労働者の方が多いからです。
2020年は、例えば青森県の平均時給は924円、最低賃金は793円でした。最低賃金を平均賃金で割ったものをカイツ指標といいますが、青森県の場合は0.86、東京都は0.71になります。要するに、実勢の賃金との比較では青森県の方が最低賃金が高いともいえます。カイツ指標が1に近いほど最低賃金に近い水準で働いている方が多いことを表しているので、青森県で最低賃金を上げていくと、影響を受ける方が非常に多いことを示唆しています。そうすると当然、最低賃金を上げると雇用が失われてしまうのではないかという懸念が生じます。この疑問に対してヒアリングなどによって答えることは極めて困難です。なぜなら、短時間労働者や非正規労働者は離入職率が非常に高いからです。ですので、大きなデータを使って統計分析をする必要があります。
最低賃金と雇用の関係
日本ではエビデンスに基づく政策形成がそれほど行われていないといわれていますが、最低賃金にエビデンスがないのかというと、必ずしもそうとはいえません。内閣府の松多秀一さんが東京財団に出向されていたときに発表した18本のサーベイ論文によると、うち11本が雇用への影響を調べており、7本は負の影響を報告し、3本は影響がないとし、1本は正と負の両方の影響を報告しています。
なぜ結果が分かれるかというと、まず小規模な調査研究では効果の推定が適切にできないからです。もう1つ重要な点は、最低賃金が上がるタイミングは伝統的に賃金上昇局面であり、景気拡大の局面で最低賃金が上がる傾向があります。そうすると、仮に最低賃金の上昇が雇用を減らしてしまったとしても、景気拡大の効果はあるので効果が打ち消されるかもしれません。それならば、景気拡大時には最低賃金を上げてもいいだろうと思うかもしれませんが、そうではなくて、最低賃金が上がらなければ景気拡大の効果によって雇用が拡大していたはずです。ですから、いずれにせよ最低賃金が雇用に対して負の影響を持つことは変わらないわけです。
そこで、最低賃金が雇用状況とは無関係に上がっていく状況に着目し、最低賃金の雇用に対するインパクトを見る必要があります。最近使われている分析方法が、2007年の最低賃金法改正を用いたものです。この当時、最低賃金でフルタイムで働いても、月収が生活保護枠を下回ってしまう問題が指摘されていました。生活保護枠は生計費によって決定されるので、住居費が高い都市部は生活保護額が高かったためです。
この逆転を解消するために、2007年に最低賃金法が改正されました。最低賃金と生活保護額のバランスを考慮することが定められ、実質的には5年ほどかけてこの逆転現象が解消されました。この点を用いて雇用へのインパクトを分析した論文が2つあります。1つは、津田塾大学の森悠子准教授と私が最近出した論文です。毎月5万世帯が調査対象の労働力調査を利用して分析したところ、19~24歳の中卒・高卒男子の雇用が減少することが分かりました。最低賃金が10%上がると就業率が12%下がるという結構大きなインパクトです。一方、中卒・高卒男子の他の年齢層や中卒・高卒女子には影響が見られませんでした。
もう1つは、同志社大学の奥平寛子准教授、学習院大学の滝澤美帆准教授(現教授)、慶應義塾大学の山ノ内健太助教(現香川大学准教授)による論文です。彼らは工業統計を利用し、製造業に分析の焦点を絞っています。彼らの分析においても、最低賃金が10%上がると雇用が5%減るというインパクトが見られました。
彼らの研究が非常に興味深いのは、労働者の生産性と賃金のギャップを計算した点です。工業統計を使っているので出荷額も労働投入も分かります。その情報を使って労働がどれだけ生産に貢献しているのかを分析したのです。一方、コスト面の情報も入っているので、総人件費の総費用に占める割合で労働分配率を出すことで、生産に対する貢献とそれに対する支払いの両方が分かります。このギャップが大きいのは生産性が賃金を上回っているような事業所ですが、こうした事業所は最低賃金が上がっても雇用が減りにくくなっています。生産性と賃金にギャップがあるため、仮に最低賃金が上がって賃金を上げなければならなくなったとしても、利潤を減らすことでその部分を吸収できるからです。
「生産性>賃金」状態の地域を特定する
今後、どの地域の最低賃金を上げていくのかを考えるに当たっては、奥平准教授たちの研究結果は非常に示唆に富んでおり、生産性が賃金を上回っている状態(モノプソニー)が起こっている地域を特定することが重要になると考えられます。生産性が賃金を上回っている状況が実現できるのは、労働市場が競争的でないときであり、労働市場が競争的だと人材の引き抜きのようなことが頻繁に起こります。そうすると、賃金よりも高い生産性を持っている事業所は雇用をどんどん拡大するので、賃金がせり上がって生産性と同じになります。そうしたことが起こらないのは、逆に言えば労働市場で雇用主が賃金を決定する力を持っている状況なのです。
各国の競争当局は、市場における競争度合いをずっと測ってきました。企業の合併審査を行うに当たって、産業集中の度合いを示すハーシュマン・ハーフィンダール指数を計算し、これが大きくなると合併は認めないということを、日本の公正取引委員会を含む競争当局はずっと行ってきたのです。こうして市場の競争度合いを測り、低い地域においては最低賃金を上げても雇用が失われないのではないかという研究が進められています。こうしたものも見ながら、どの地域で最低賃金を上げても雇用が失われないのかを見ていくことが必要になるでしょう。
もう1つ重要な宿題としては、雇用保険のデータを使って、雇用を失った労働者がどこの事業所に吸収されているかを分析していくことが極めて重要になると考えています。ドイツではすでにこうした研究が行われています。