所得格差に世間の関心が集まって久しい。労働環境が大きく変化し、短時間労働者が経済の中に増えるなど、労働時間が多様化すれば労働所得の格差は拡大する。しかし、いま世間で関心の対象となっているのは、むしろ同じ時間働いている労働者の間での格差、すなわち時間当たり賃金の格差であろう。
この連載では日本の賃金格差の長期的な動向を紹介し、その動向を主に米国の動向と比較したい。その上で時間当たり賃金の決定を説明する1つの理論である人的資本理論を用いることで賃金格差の動向がどの程度説明できるかを紹介する。理論を用いて過去をある程度説明できれば、将来の予想もある程度可能になる。そこで今後日本の賃金格差がどう推移すると予想されるのかも考察する。さらにその中で起きるであろう問題と、それに対する望ましい政策対応についても考えたい。
まず日本の賃金格差はこの20年でどう推移してきたのか。一橋大学の神林龍准教授、米ミシガン大学大学院の横山泉氏と筆者の共同研究の結果でその点を確認しよう。この研究では日本の賃金を把握するに当たって最も精度が高い統計である厚生労働省の賃金構造基本統計調査のミクロデータを用いた。この調査では毎年8万前後の事業所を対象に、その賃金台帳からランダムに抽出された約170万人の労働者の給与額が労働時間とともに記録されている。この大規模調査データのミクロデータを用いることで、様々な切り口と指標を用いて雇用労働者の賃金格差の長期時系列をとらえることができる。我々の分析は1989年から2003年までの期間を分析の対象としたが、大まかにいってこの期間中、日本の賃金分布は安定的に推移した。賃金分布の上から数えて10%の値と中央値(メジアン)の格差はほとんど変化しておらず、中央値と下から数えて10%の値の格差も変化が見られなかった。高卒と大卒の間の賃金格差もほとんど拡大しなかった。
この共同研究はデータが03年までと若干古いので、直近の賃金格差の動向も把握する必要があろう。また90年代を通じて安定的に推移した日本の賃金格差は、他の先進国の経験に照らしてみて、一般的だったのか特徴的だったのかも興味深い。この点は次回見たい。
2010年9月14日 日本経済新聞「やさしい経済学―大学進学率と賃金格差」に掲載