政治理念衝突 米の原動力 債務上限 瀬戸際の合意

竹森 俊平
上席研究員

米連邦債務上限引き上げ問題で、欧州から不満の声があがる。バイデン政権と野党・共和党が原則合意に達した。協議が難航した背景を国際経済学者の竹森俊平氏が解説する。

非合理

米国議会が連邦政府の歳入、歳出を決める通常の予算権に加え、連邦政府債務の上限を決める別枠の権限も持つことには歴史的な経緯がある。

かつての米国では国債増発を伴う政府の予算措置はすべて議会の個別の承認を必要としたが、1917年の米国の第1次世界大戦参戦をきっかけに予算規模が拡大したため、個別ではなく、債務残高の上限について議会の承認が必要なようにルールを緩和したのだ。その後の第2次世界大戦や朝鮮戦争の軍事費の拡大に、議会は速やかな上限引き上げで応じた。

経緯はともあれ、債務上限を決定する権限を議会が別枠に持つのは非合理な仕組みだ。

経済学者がよく用いる説明だが、ここに水槽があり、その貯水量を「債務残高」と考える。さらに一定時間に注水される水量を「政府の支払い」に、同じ時間に排水される水量を「政府の受け取り」に例える。すると「支払い(=注水)」が「受け取り(=排水)」を上回る水量、財政会計では「財政赤字」に等しい水量だけ「債務残高(=貯水量)」は増加する。もしこの時、債務残高に低い上限を無理やり設け、それ以上の増加を認めなければ、予算計画に従った政府の支払いの一部は実行できなくなる。

そうなれば年金や医療保険、公務員給与の支払いが止まる。米国債の元利の支払い不履行も起きる。米国債は世界で一番安全な資産と見なされ、それを担保にして今日の国際金融取引が組み立てられているため、不履行の被害は世界経済全体に及び、国際金融取引は麻痺(まひ)するだろう。

切り札

議会の債務上限の決定権にはこのような問題点があるものの、債務不履行を導く破壊力を持つというまさにその理由で、「小さな政府」を志向する米共和党は政治駆け引きの切り札として活用する。近年は民主党の大統領の下で、共和党が議会の過半数を握るねじれ状態が生じるたびに、上限引き上げを拒む瀬戸際作戦を用いて、歳出削減を勝ち取ろうと試みる共和党の画策が始まる。

最初にそれが起きたのはカーター民主党政権時代の79年5月だった。この時は財源切れ寸前まで瀬戸際の攻防が続き、ついに同年4月と5月初めに満期が来る米短期国債への支払いが不能となって、「不慮の不履行(テクニカルデフォルト)」が起きた。それによる信用不安が数年にわたって米国債金利を0.6%分上昇させたと指摘される。

近年で一番深刻だった危機は2011年夏に起きた。オバマ民主党大統領の下で共和党が議会を掌握するねじれ状態において、共和党議会は債務不履行も辞せずという強い姿勢で瀬戸際作戦を貫徹した。結局、大統領が10年間にわたり2兆ドル(約280兆円)以上の歳出削減を公約する譲歩をしたため上限は引き上げられたが、信用不安で国債金利は上昇し、リーマン・ショックから間もない時期の無理な歳出抑制が景気回復を遅らせた。

ねじれ

昨年の米中間選挙で民主党は予想外に善戦したが、微差で下院支配が共和党に移ったためねじれが再現し、今回の政治衝突につながった。本年1月19日に債務は31.4兆ドルの上限に到達。その後は財政資金のやり繰りでしのいだが、それも限界で6月5日には不履行が起こるとイエレン財務長官は警告していた。

今回の共和党のケビン・マッカーシー下院議長との合意では、債務上限は次期大統領就任時期の25年1月まで適用が停止される一方、バイデン大統領も2年間にわたる裁量的歳出の抑制などの妥協に応じた。民主党議員の4分の3の賛成により、共和党議員の3分の1の反対を乗り越えることができ、合意案は5月31日に下院を通過している。

内戦の歴史

ロシアや中国の強権体制に対する西側の結束を主導するバイデン大統領だが、この問題の交渉を控えて5月の広島でのサミット終了後、早々に帰国した。国家財政の破綻を駆け引きの材料にするほどの国内政治の深刻な対立は他の同盟国では考えられず、西側のリーダーとしての米国の地位に不安を投げ掛けるという見方もある。

しかし、もともと政治の根本理念を巡る国内対立の深刻さこそが米国史の独自性だ。米国がこれまで経験した最大の死者(約70万人)を生んだ戦争が、「内戦(南北戦争 1861〜65年)」だったことがこの事実を浮き彫りにする。

国民の自由と権利の章典である「合衆国憲法」は奴隷禁止を明示しなかった。そのことが原因となり、「奴隷制度」を自由の侵害と考える北部と、「奴隷禁止」を国民の(奴隷に対する)所有権の侵害と考える南部の理念が真っ向から衝突する。関税や産業保護などの経済問題ならまだ妥協があり得たが、合衆国制度の根本、国民の自由の基本理念に関わるこの対立には妥協があり得ず、戦争で決着せざるを得なかった。今日でも南北戦争を必要な戦争だったと考える米国人が多く、北部を率いたリンカーンがもっとも偉大な大統領と評価されるのはそのためだ。

自由を基礎にする政治制度への理念的こだわりこそが米国の特質であり、抜群の経済力、人口、天然資源と相まって米国を西側のリーダーに押し上げる原動力にもなっている。悲惨な大戦を繰り返した欧州の大国は妥協を重視し、いざとなれば内戦も辞さないほどの米国の政治理念への執着の気迫に太刀打ちができない。

気がかりなのは近年、共和党と民主党の支持層間の理念対立が南北戦争前夜を想起させるほどに深まっていることだ。もし次回の大統領選でトランプ氏が返り咲くようなら、米国はバイデン政権とは正反対の理念を西側同盟国に提示するだろう。こうしたショックを緩和するには、そろそろ米国政治が妥協を学習することが望ましく、今回の財政問題の両党による予想外に円満な解決が実現すれば、それへのきっかけになる。

2023年6月2日 読売新聞「竹森俊平の世界潮流」に掲載

2023年6月9日掲載

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