2月の衆院選はほとんどの政党が消費税減税に言及する異例の展開となった。その民意をどう読み解き、政策に反映するか。
背景には格差拡大があるとされる。しかし給与所得分布の過去30年間の推移を見ると中央値は約400万円、90%点は800万円、99%点は1600万円でほとんど動きがない(図)。
これはK字型の格差拡大といわれる米国の状況と大きく異なる。日本の給与分布は富裕層が富裕化しているわけでも、格差が顕著に拡大しているわけでもない。格差が固定したまま全体が沈滞した30年だった。
政策研究大学院大の北尾早霧氏、東北大の鈴木通雄氏と明治大の山田知明氏は自治体の税務データを用いて個人の給与収入分布を分析した。結果はおおむね図と整合的だ。上位10%対中央値の比は2未満であり、ジニ係数はほとんどの自治体で0.3以下である。
社会の不平等度を表すジニ係数には興味深い性質がある。ランダム抽出した二人の所得の大小の期待値の比は、ジニ係数と1の和と差の比に等しくなる。例えばジニ係数が0.3のとき、大小比は2弱(=1.3対0.7)になる。
ランチで千円の海鮮丼を注文すると、隣の席は特盛2千円、向かいの席はミニ盛5百円を食べている。ジニ係数0.3の社会の格差とは、さしずめそのようなものだ。ジニ係数が0.5に上がれば、大小比は3となり不平等度は上がる。しかし2000年以降の日本の給与に、そのような格差拡大は起きなかった。
一方で給与の中央値は30年間で9%も下落した。この間、実質GDPは17%増大し、国民所得に占める雇用者報酬は約70%で安定していた。家計は賃金低下に逆らい労働供給を増やし、年率約0.5%の所得成長を生んできたことになる。
これは世帯の多様化を背景に労働供給が変化したことを示唆する。北尾氏と山田氏の家計調査を用いた分析によると、ジニ係数は世帯合計所得の方が世帯主所得よりも小さい。したがって共働き世帯の増加には世帯間不平等を緩和する効果がある。共働き世帯の割合は2000年の4割から直近の6割弱まで高まった。
しかし、現役世帯のジニ係数はむしろ上昇した。台頭するパワーカップルから賃金低下にもろいひとり親世帯まで、世帯労働の多様化が格差に及ぼした複雑な影響を見通す必要がある。
2000年代の物価停滞と22年以降のインフレ転換の影響も複雑だ。予期されない物価上昇は債権者から債務者へ富を移転させる。日本で最大の債権者は家計、債務者は政府だ。単純計算で家計の現預金1000兆円に負の実質利子率を掛けた額が足元のインフレで年々政府に移転した。
ただしインフレに先立つ新型コロナ下では、給付金と消費需要減により家計の現預金が大幅に積み上がった。真に給付を必要とした家計は余計な貯蓄を残さなかっただろう。したがってインフレ転換は余裕のある家計からない家計への再分配効果を持った。
インフレ転換に伴う大規模な富の移転は1回限りの出来事である。すでに長期金利は物価上昇率に追いついているので、今後の財政改善効果は限定的だ。
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過去30年間の財政は医療費など高齢化に伴う給付の膨張に歯止めがかからない。研究や教育、インフラへの重要な投資が削られ、労働者には社会保険料負担が重くのしかかる。財政負担が勤労世代に偏り、将来世代に恩恵をもたらす投資が細っている。その是正に向けた財源をどうするか。
真っ先には無駄な医療費の抑制だ。市販薬に代替できる処方をなくすことで1兆円も削減できるとされており、困窮層に目配りしつつ実行すべきだ。心ある医師には経済社会の健康のことも考えてほしい。
富裕層への適正課税も重要だが、それだけでは財源にならない。日本では米国のような富の極端な集中が起きていないためだ。
法人税に財源を求めるのは選択肢だが、雇用という金の卵を産む企業の首を絞めては元も子もない。資本課税も可能だが、生産資本が減少して賃金も下がれば、負担は労働者に帰着する。確定拠出年金など老後に向けた積立を通じ、幅広い家計に資本所得が行き渡る仕組みを整える方が分配の観点でもベターだ。
結局、社会保障財源は有権者に不人気な消費税が望ましい。専門家の多くが消費税減税を賢明でないと考えるのはなぜなのか。
消費税の特長は、勤労世帯だけでなく資産を持つ退職世帯や高所得層にも漏れなく負担を求める点だ。応能負担原則を考えるとき、所得だけで経済力を測ると資産家層を過小評価してしまう。大きな経済力には大きな消費額が伴うと考えて課税するのが合理的だ。
「逆進的」との形容がついてまわる消費税だが、その根拠は低所得者の消費性向が高いこととされる。しかし高所得者に偏る貯蓄は将来の消費時に消費税として納められ、消費しきれない分は相続税が課される。
消費税は欧州の福祉国家に根付く付加価値税に相当する。付加価値は労働と資本が生むため、消費税は労働にも資本にも均等にかかる。また消費税は付加価値を享受するすべての人が負担する。現在の免税制度を廃して訪日観光客にも応分の消費税負担を求めるのもフェアではないか。
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政府が制度設計を進める給付付き税額控除は低所得者を労働市場に包摂することでセーフティーネットを強めようとするものだ。労働市場が包摂的に機能するには企業経営者の自覚が重要である点を強調したい。
経営者はリーダーとして市場競争を引き受け、付加価値を生み雇用を創造する社会的役割を担う。経営者間の競争こそが労働者の包摂と所得中央値の成長を実現する原動力である。
経済学は競争の機能を重視するが、弱者に強いるわけではない。競争は組織を率いて生産資源を動員する強者に求める責任だ。経営者は挑戦に身を開き、敗れたら去らなければならない。その厳しい競争が優良な経営を育み、社会厚生を生む。拙い経営者を温存させがちな補助金制度は、給付付き税額控除のように就業者個人を直接支援する仕組みへ再編すべきだろう。
過去30年間、給与分布の固定化の背後で世帯構成と労働供給は変化し、多様化した。旧来の働き方や性別分業、伝統的家族観から離れた人々の中に、既存の社会保障にとりこぼされ困窮する例が出てきた。
給付付き税額控除を用いて多様な労働者の包摂を図るとき、直接の接点となるのは経営者である。多様な人からなるチームをまとめ成長させる創意工夫が企業経営に求められている。
昨年暮れの紅白歌合戦で40年ぶりに「聖母たちのララバイ」を聞いた。企業戦士がマドンナに癒やされ泣きぬれる、そんな関係もあっていい。しかし男はみな戦士で、女に育児と家事を担わせた同質社会にはレクイエムがふさわしい。その変化の先にこそ私たちの新しい経済がある。
2026年3月23日 日本経済新聞「経済教室」に掲載