2025年度ノーベル経済学賞はイノベーションの研究者たちに贈られた。経済史家のジョエル・モキイア、ならびにマクロ経済理論家のフィリップ・アギオンとピーター・ホーウィットである。本稿では、内生的経済成長理論におけるアギオンとホーウィットの貢献を振り返り、成長政策分析への含意を概観したのち、筆者らが実施している関連研究プロジェクトを簡単に紹介したい。
アギオン=ホーウィットモデル
アギオンとホーウィット(Aghion and Howitt 1992; AH92)は、シュンペーターが提唱したイノベーションの「創造的破壊」プロセスを動学一般均衡モデルに組み込んだ。モデルでは現在の財生産を独占的に担っている既存企業と、参入を狙う新規企業が競争する。既存企業に勝る製品を開発するために、新規企業は研究開発チームを雇い入れる。製品開発の成否にはリスクがあり、成功すれば参入が達成できるが、失敗すれば人件費分の損失を被る。これがイノベーションに必要なリスク投資である。
晴れて製品開発に成功した新規企業は、既存企業を追い落とし、既存企業が得ていた独占利潤を占めることになる。しかし利潤を永遠に獲得することはできない。なぜなら新規企業は今や既存企業であり、次の新規企業が自分の独占利潤を狙って研究開発を始めるからである。これが資本主義の動態的本質とシュンペーターが喝破した、創造的破壊のプロセスである。
AH92のシンプルなモデルから豊かな含意を引き出すことができる。まず、新規企業のインセンティブに注目しなければならない。新規企業がコストを支払い、リスクをとってイノベーションに挑むのは、報酬として独占利潤があるためである。苦心して編み出した発明が、簡単に他人に盗用されたり、勝手に上司の手柄にされてしまう環境では、イノベーションは起こりにくい。発明のインセンティブを担保するために一定期間の独占を許す制度、例えば特許制度が望まれるのはそのためである。
一方で、このインセンティブには独占による社会厚生の毀損(きそん)という副作用がある。したがって特許制度が成長政策として機能するためには、独占の弊害とイノベーション効果、さらに知識のスピルオーバー効果などが勘案されて設計される必要がある。AH92のような数理モデルは、創造的破壊にかかる要因を定量的に操作化することによって、現実の制度設計に役立てる意義をもった。
新規企業のインセンティブには、ヒト・モノ・カネを調達するコスト環境も影響する。リスク投資を許容する金融手段や、研究開発チームを素早く組織するための人材供給と労働市場が重要だ。これらの環境づくりのために、会社法や倒産法制、パススルー税制、高等教育の公的補助や海外人材の受け入れといった制度が、成長政策として重みをもつのである。
既存企業の行動もまた、経済全体の成長を規定する要因である。例えば、既存企業が自社製品を「創造的破壊」するインセンティブは、新規企業より必ず小さい。なぜなら破壊される旧製品から既存企業は利益を得ているからだ。AH92モデルにおける成長の担い手が新規企業になるのはこのためである。アロー(Arrow 1962)の指摘に始まるこのカニバリゼーション効果の分析は、経済学と経営学においてその後多彩な展開を見た。後期シュンペーターが強調するように、既存企業は企業内金融機能を持つなどの優位性から、イノベーションの重要な担い手でありうる。しかしAH92が表したような、しがらみのない新規参入者の持つ破壊力は、活気ある経済においてしばしば観察されるものである。
破壊すべき既存企業の独占的地位こそが新規企業にとって参入の誘引になっていることが、創造的破壊モデルの持つ意外な含意に結びついていく。まず、独占力の増大はこのモデル経済では成長率を上昇させる。なぜなら、この経済の成長率はイノベーション活動に携わる研究者の数で決まり、大きな独占利潤は研究者を雇用するインセンティブを増大させるからだ。イノベーション発生確率の増大もまた、通常は経済成長率を引き上げる。ただし、将来のイノベーション発生確率の増大は、この経済では現在の成長率を下げる効果を持つ。なぜなら将来の発明は、現在の発明の成果を破壊して将来の利潤を無にするからである。
内生的経済成長理論と定量的政策分析
マクロ経済の長期的発展を研究対象とする経済成長論からは、昨年のダロン・アセモグル、サイモン・ジョンソンおよびジェームズ・A・ロビンソンに続いて2年連続の受賞となった。2018年に受賞したウィリアム・ノードハウスとポール・ローマー、それに人的資本成長論を提起した宇沢弘文とロバート・ルーカスが加わったら、新しい成長理論の立役者をおおよそカバーしたことになるだろう。
ソローが確立した新古典派成長理論では、金利、資本係数、労働分配率において定常値を維持したままGDPが成長を続ける20世紀の先進国経済のパターンを、規模の収穫一定のマクロ生産関数のもとで自然に理解することができた。しかしそのモデルで経済成長の動因とされた生産技術水準の上昇については、科学の進歩など経済外的な要因によるものとされた。このブラックボックスの中身を開いたのが内生的成長理論である。
宇沢=ルーカスは、労働投入が人的資本投入に代替されると、主要な本源的生産要素である資本と労働がともに蓄積可能な生産要素となることから、収穫一定生産関数のもとでも経済は内生的に成長しうることを示した。ローマー(Romer 1986)は成長の元となる知識(情報)が、同時に多くの利用を許す「非競合性」をもつことに注目し、私的利益の追求によって生み出された知識がいずれ伝播(スピルオーバー)することが内生的な経済成長の源泉だとした。ローマーの理論は、知識のもつ外部効果によって、知識創造の公的補助政策を厚生的に基礎づけた。
この系譜においてAH92が注目したのは、生産技術の向上を目的とした経済活動が、既存産業から顧客を奪って「破壊」するという、イノベーションの負の側面だ。この視角は経済成長の一筋縄ではいかない明暗を浮き彫りにする。とりわけAIや自動化などドラスティックな技術革新は、既存企業や職業の代替を伴い、一時的では済まない分配上の格差をもたらす可能性を持つ。労働市場機能への目配りが必要になるだろう。
現代の内生的成長理論はシュンペーター動学を数理的に表現し、イノベーションに関わる多様なデータを用いて定量的に操作化して、政策立案に資する因果性の発見や政策評価に結実している。さらに、持続的な地球環境と成長のための炭素取引市場の設計に寄与したノードハウスの業績に示されるように、経済成長の外部不経済も包摂した分析が進んでいる。
しかし、現実の経済成長はモデルよりも常にはるかに複雑である。モデル分析は、検証可能な個別政策手段の特定化には役立つが、イノベーションの全体像を描写するものにはならない。モキイアの著作はイノベーション史を千夜一夜のように物語ってそのことを思い返させる。モキイアは、マクロ発明とそれに引き続いて叢生(そうせい)するミクロ発明群といった、イノベーション現象の最大公約数的なパターンを歴史から懸命に引き出してくれる。さらに、必要条件として「成長の文化」ともいうべき、発明者の尊重と発明成果の共有、つまり多様な主体の結果的な協業としてのオープンイノベーションを素描してくれる。その一方で、歴史は必ず個別であること、イノベーションの同一構造といったものはなく、一度起こった成長の軌跡は他の場所に移植できるようなものではないことを入念に書き入れる。筆者が担当した一橋大学商学部2年生の英書購読でMokyr (1990)やAcemoglu and Robinson (2013)を読んだときには、歴史や制度と格闘する骨太な著作に取り組むことが学生の思考力を磨くことを実感した。
日本の成長政策への含意:時は移りゆくもの
RIETIで筆者が取り組むイノベーション研究プロジェクトでは、AH92をベースとした定量的研究を複数実施している。一つは、企業財務諸表や特許、学術書誌データを用いて、基礎科学研究と応用技術研究への投資が相補的に企業成長を促進することを分析している。もう一つは、専門労働市場の流動性が起業家の失敗リスクを緩和したり、研究開発チームの組織化を容易にする効果に注目する。これらの要素を成長モデルに取り入れることで、政策の検証やマクロ経済評価が可能になる。
このような成長分析は国際学会でも注目度が高く、本プロジェクトもその研究の潮流に参画して貢献するものである。しかしながら、日本の目下の実践的政策課題は「それ以前」の、長らく指摘されていながら遅々として改善しない問題群であるという雰囲気が、研究会の若い参加者からは漂う。2点挙げたい。
一つは研究開発における女性の参画である。AH92のモデルでは、経済成長率はイノベーション活動に携わる技能者の数で決まる。日本の女性の教育水準・学力の高さは世界で一流である。しかるに日本の研究開発に携わる女性比率は圧倒的に低い。原因は複雑だが、言い訳する前に各機関が主体的に動くべきだろう。
もう一つは公的・準公的(医療・教育)部門のデジタル化である。コロナ下でついに動いたかに見えたが、紙とハンコは帰ってきた。私の知る2つの公的機関で、1ページの文章を入力する様式に、エクセルファイルが指定されている。そのため文章を続けて書くことができない。これがどれだけ腹立たしいかというと、
改行するために、文の途中で一度リター
ンキーを押して、下のセルに行く必要が
ある。想像するに、この様式は以前には紙で配布されていたのが、電子的に頒布してほしいという要請が増えたため、担当者が様式書の枠から罫線までのすべてをエクセル表に表現し切ったのであろう。もはやアートに近いこのエクセル表の本質的な問題点は、入力された情報が電子データになっていないということである。
新旧の価値観のせめぎ合う60年代に放たれ、のちにノーベル文学賞に値したボブ・ディラン(Dylan 1963)の一節
手助けできないのなら、せめてどいてください
は、世紀を超えて、変われないまま創造的破壊を待つ日本の組織に吹き流れ来るように思われる。