政府は2016年、「全国加重平均1000円」という最低賃金の目標を設定した。それ以降、最低賃金は累計で30%以上高くなった。この間、物価変動を補正した一般労働者の実質賃金はほぼ横ばいだったが、最低賃金は実質でも14%上昇した。
「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)2026」は、30年代前半に1500円という目標を掲げる。中央最低賃金審議会は今年の引き上げ額の目安を全国平均で55円とした。改定額は各都道府県の審議会が決める。
最低賃金引き上げの弊害として懸念されるのは、低賃金労働者の雇用機会喪失だ。しかし、海外では雇用への影響は限定的だとする研究が多い。利益の圧縮、生産性向上などで、企業が最低賃金上昇に対応しているからだ。特に、製品・サービス価格への転嫁で対処していることを示す研究が多い。つまり、最低賃金引き上げの一部は、消費者が負担していることになる。
一方、日本では雇用へのマイナスの影響を示す研究が多い。デフレでコスト上昇分の価格転嫁が難しかったのだろうが、最近は物価全体が上昇する中で、価格転嫁の動きも強まっている。
近年の最低賃金引き上げの特徴は、最低賃金が低い県ほど引き上げ幅が大きく、地域差が縮小していることだ。「地域間格差の是正」という政府方針のほか、近隣県との引き上げ競争があるようだ。
昨年まで10年間の上昇率は東京都の35%に対し、東北、四国、九州のいくつかの県は50%前後にのぼる。一昨年の徳島、昨年の秋田のように、目安を大幅に上回る改定を行う県も現れた。
賃金コスト上昇を生産性向上で吸収できれば理想的だが、日本では最低賃金上昇が生産性を高めた証拠は乏しい。最低賃金の地域差は平均賃金よりもずっと小さく、生産性とのバランスにひずみが起きている可能性が高い。
最低賃金引き上げ競争の背景は、他地域への労働者の流出抑止だと見られる。しかし、米国の研究は逆に、最低賃金が高い州から低い州に労働者が移動したことを示している。最低賃金が高い地域で労働需要が減少するからだ。
日本でも最低賃金の高い地域から低い地域に企業が移転した傾向が観察される。最低賃金の引き上げで労働者の流出を抑制できる保証はなく、逆に地域経済活動にマイナスに働く恐れもある。
価格転嫁が進めば生産性が低い地域の物価上昇圧力が強まる。名目最低賃金の引き上げを物価上昇が相殺する形で調整されることも考えられる。地域間競争がある農水産物や工業製品より、地元で消費されるサービスの方が価格転嫁しやすいからだ。
今のところ物価上昇率の地域差への影響は確認されていない。だが、地方圏で大幅な最低賃金引き上げが続けば、その地域の消費者の負担が重くなる可能性もある。
低賃金労働者の処遇改善は望ましいことだが、最低賃金には副作用もある。各地域の生産性や平均賃金とのバランスを欠けば、意図に反して地域経済の衰退を助長する一因になりかねない。
2026年9月3日 日本経済新聞「エコノミスト360°視点」に掲載