日本の研究力低下が深刻になる中、博士課程進学者の減少がその一因だとされている。政府は、博士課程学生の処遇向上、博士のキャリアパス整備に取り組んでいる。2024年の経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)は、博士号取得者の幅広い活躍の場の創出につながる取り組みや処遇向上を進め、博士人材を世界トップ水準並みに引き上げるとしている。
文部科学省の「博士人材活躍プラン」は、日本の人口当たり博士比率が主要国に比べて大幅に低い事実を指摘し、その大きな理由は博士課程修了後の就職や、賃金など処遇への不安だという調査結果を示している。博士人材が労働市場で不遇な状況にあるという印象を受ける。
政府は物価上昇率を上回る賃金上昇率、つまり実質賃金の上昇を目指している。そのためには生産性向上が不可欠だ。高等教育は、イノベーションと人的資本投資という生産性上昇の2つの源泉に関わる。この点からも大学院、特に博士人材の労働市場での実態は、データに基づいて確認する必要がある。
欧米の実証研究では、博士人材の賃金は修士人材よりもかなり高い。日本では両者を区分した大規模な統計がなかったため、実態がわからなかった。しかし、5年ごとに行われる「就業構造基本調査」(総務省)は、22年調査から両者を区分した。エビデンスに基づいて、適切な人的資本投資を検討する上で重要な改善といえる。
その結果を見ると、日本の就労者のうち博士人材は0.7%を占めている。博士人材は学部卒や修士人材より就労率が高く、特に女性で顕著である。また、平均賃金は修士人材より約40%高い。賃金の高い職業に就く確率が高いことが大きく寄与している。博士人材の生涯所得は修士人材よりも男性で34%、女性では56%多い。博士課程進学の投資収益率(利回り)を概算すると男女とも10%前後なので、一般の金融資産への投資よりも高い。
もちろん博士人材にも低所得の人はおり、高学歴ワーキングプアのエピソードも耳にする。博士課程に進学しても修了できない人や、修了までに長い年数を要する人もおり、博士課程進学という投資にリスクが伴うことは否定できない。その点で、博士人材のキャリアパスを広げ、リスクを低減する最近の取り組みは有意義だ。しかし、平均的に見る限り日本でも博士課程進学は有効な人的資本投資で、その事実自体が、博士課程進学への躊躇(ちゅうちょ)を緩和するかもしれない。
ここでの数字は個人にとっての私的投資収益率だ。イノベーションや教育活動を通じて生み出す効果を含めた社会的収益率はおそらくこれよりも高い。そうした外部経済効果を考慮すると、政策的支援には合理性がある。他方、平均的に所得が高い層への支援になるため、公平性との関係では議論の余地がありうる。しかし、奨学金制度の充実、資力や成績に応じた学費減免など、資金制約のために進学できない学生を支援する政策は、効率性と公平性のいずれからも望ましい。
2024年7月26日 日本経済新聞「エコノミスト360°視点」に掲載