賃金コスト上昇の適切な価格転嫁

森川 正之
所長・CRO

今年の春季労使交渉では、賃上げ率が消費者物価指数(CPI)上昇率を上回り、実質賃金の上昇につながるかが注目されている。政府・日銀は、賃上げが「賃金と物価の好循環」のカギだとしており、賃金コスト上昇を適切に価格転嫁する必要性を強調している。1970年代の高インフレ期には賃金・物価のスパイラル的上昇が懸念されたが、現在はそのような循環が期待されているわけだ。

最近、中小企業を含む日本企業に今後の賃上げ方針を尋ねた。回答した千数百社の92%が賃上げを行う方針で、実質賃金を維持するCPI上昇率並みの賃上げという企業が最も多かった。CPI上昇率を上回る賃上げという企業は5%に過ぎず、生産性向上分も実質賃金に反映されるかどうかは微妙である。

一方、人件費を含むコスト上昇の価格転嫁状況では、4分の3の企業が全部または一部を転嫁できていると回答した。一般に、コスト上昇を100%価格転嫁するのは企業にとって最適行動とはいえない。仮にそうした場合、販売数量減少のマイナス効果が、価格引き上げのプラス効果を上回るからだ。コスト上昇の価格転嫁はかなり進んできたのではないか。

独占力のある大企業は価格転嫁できるが、競争の厳しい中小企業は転嫁できないという議論を時々耳にする。しかし、これは正しくない。標準的な理論では、価格支配力を持つ企業の方がコスト上昇の価格転嫁率は低くなる。

このことは、ミクロ経済学の代表的な教科書「ミクロ経済学の力」(神取道宏著)がわかりやすく解説している。独占力のある企業はもともと高い価格で販売しており、コスト変化への感応度が低く、販売価格が硬直的だからだ。海外の実証研究も、売り手が独占的な市場ほど価格転嫁率が低いことを示しており、筆者の調査でも、規模が大きな企業ほど価格転嫁できる、という関係は見られない。

公正取引委員会は、中小企業が売り手で大企業が買い手の企業間取引をターゲットに、価格転嫁対策を実施している。消費者向け販売とは違い、大企業が「買い手独占力」を持つ場合、価格転嫁が過小になり得るからで、政策的対処の理由はある。

ただ、政府の手の届く範囲でできることは、他にもあるかもしれない。長期デフレの中で定着した「賃金・物価が上がりにくいことを前提とした慣行や考え方」は、民間部門だけでなく公的部門にも当てはまる。例えば、予算制約や前例主義もあって積算単価や名目契約額の引き上げは簡単でなく、価格調整コストは大きい。結果として公的機関に対する価格転嫁が難しい企業も多いのではないか。

コスト変動を自動的に反映する仕組み(インデクセーション)なら、価格転嫁はスムーズになる。公共工事のインフレスライド制度はこれに近い。インデクセーションを広く取り入れるのは難しいだろうが、物価上昇がノルム(社会通念)となり、名目と実質の乖離(かいり)が常態となる前提で、価格改定を迅速化するなど、制度や慣行を変えていく必要があるだろう。

2024年2月22日 日本経済新聞「エコノミスト360°視点」に掲載

2024年3月4日掲載

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