市場の競争環境、結果を左右 最低賃金引き上げるべきか

児玉 直美
リサーチアソシエイト

日本では毎年夏、公労使からなる最低賃金審議会での審議および答申を受けて最低賃金が改定される。地域別最低賃金額の全国加重平均は、2007年以降は生活保護費との逆転解消のため、13年以降はアベノミクスの成長戦略の一環として、近年、毎年2~3%ずつ上昇している(図参照)。

図:最低賃金額と平均賃金、消費者物価指数

だが20年は新型コロナウイルス感染拡大による景気後退を受け、全国平均で1円の微増にとどまった。その議論の中で、労働者側は引き上げを求める一方で、使用者側は事業継続と雇用維持を優先するために据え置くべきだと主張した。

本稿では、最低賃金上昇のコストを負担するのは誰かについて議論したい。

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そもそも最低賃金の上昇によるコストを負担するのは使用者側だけではない。最低賃金が上がったら、使用者が上昇分の賃金を支払うのだから、そのコストを負うのは使用者だと考える人が多いかもしれない。しかし経済理論によると、使用者がすべてのコストを負担するわけではない。

賃金が上がると、企業は労働需要を減らす結果、労働者は雇用減少という形でコストを負担することになる。需要側と供給側がそれぞれコストをどれだけ負担するかは労働供給と労働需要の弾力性により決まる。標準的なミクロ経済学の教科書に基づくと、賃金が限界労働生産性(労働生産要素を1単位追加した際に追加的に増える産出量)と一致する競争的な労働市場では、均衡賃金を上回る最低賃金が課された場合、企業は労働生産性が最低賃金よりも低い労働者を解雇するため、労働者数は減少する。

多くの労働経済学者が考えるような「労働需要が賃金に対し弾力的で、労働供給が非弾力的な市場(使用者は価格に敏感だが、労働者はそれほど敏感ではないケース)」を仮定すると、コストを負担するのはもっぱら供給側の労働者だ。また完全競争の労働市場で、最低賃金が限界労働生産性を上回った場合、一部の企業は賃金上昇を吸収できず、退出する可能性もある。

話が複雑なのは、これは完全競争を仮定している場合であり、使用者側が労働市場支配力を持っていると最低賃金の上昇が必ずしも雇用を減らさないことだ。

労働需要が少数の企業に限られる場合(企業城下町のような一部の大企業が労働者の多数を雇用している場合など)には労働市場集中度が高く、企業数が多い場合には集中度が低いと定義される。仮に集中度が高い労働市場で、企業が限界労働生産性よりも低い賃金を支払っていれば、企業は高い最低賃金が課されたからといって必ずしも労働者数を減らすわけではない。

すなわち集中度が高い場合には、高い最低賃金は生産性より低い賃金を引き上げる外的圧力となり、労働供給を増加させることもある。労働市場が不完全競争の場合、企業は高い最低賃金に直面しても、完全競争均衡よりも低い賃金を支払っているため、利益を出すことができるからだ。

こうした理論的な結論は実証研究でも支持されている。デービッド・カード米カリフォルニア大バークレー校教授とアラン・クルーガー米プリンストン大教授は、最低賃金上昇後に雇用者数が減っていないことは労働市場の買い手独占により説明できると指摘した。

彼らの論文では、1992年に最低賃金を引き上げた米ニュージャージー州のファストフード店の雇用者数の変化と、最低賃金を引き上げなかった米ペンシルベニア州の雇用者数の変化を比較した。前者でも最低賃金上昇により雇用者数が減少したという事実は確認されなかった。ファストフード店が右肩上がりの労働供給曲線に直面している一方で、最低賃金上昇前には限界労働生産性より低い賃金を支払っていたことを示した結果だと解釈した。

一方、ホセ・アザール・ナバーラ大(スペイン)助教授らは、2010年代の米国の小売業データを使い、労働市場が競争的な場合、最低賃金の上昇は雇用をより減少させることを示した。

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これらの政策的示唆は現代の日本にも当てはまるだろうか。筆者は泉敦子・東京大学エコノミックコンサルティングシニアエコノミスト、権赫旭・日本大教授とともに、労働市場集中度の違いを利用して最低賃金の効果を検証した。具体的には00~10年代前半の製造事業所データで、年ごと、経済圏ごとの労働市場集中度の違いにより、最低賃金上昇が雇用にどのような影響を与えるかを分析した。

その結果、10年代前半までの製造事業所という限定付きながら、以下の3点が明らかになった。第1に最低賃金上昇は平均的には雇用を減少させ、労働市場集中度が高まるとその減少幅は小さくなる。だがその効果は大工場と中小工場で異なる。最低賃金上昇により中小工場では雇用が減り、大工場では雇用が増える。

第2に最低賃金上昇により非正規労働者は大工場でも中小工場でも減少する。

第3に最低賃金が上がることにより事業所退出率も上がる。最低賃金が上がると、競争的労働市場では集中度が高い労働市場に比べて大きく退出率が上がる。

これらの結果は、①大規模事業所の正社員は集中的労働市場、それ以外の社員は競争的な労働市場に直面している②平均的には最低賃金上昇が雇用を減らし事業所退出率を高める――ことを示す。つまり労働者と使用者の二項対立ではなく、大企業と中小企業、正規労働者と非正規労働者の間で、最低賃金上昇の効果が異なる可能性がある。

最低賃金は財政支出を伴わない政策手段なので政府が好んで使う傾向がある。だが最低賃金上昇のコストは誰かが負担している。労働者の生産性が上がらず最低賃金だけが引き上げられると、①企業収益の低下という形で企業が負担する②雇用や労働時間の減少という形で労働者が負担する③財の価格上昇という形で消費者が負担する――のいずれか、もしくはいくつかが同時に起きるはずだ。

米マサチューセッツ工科大学(MIT)のドラック・ジェンギズ氏らは、最低賃金上昇により製造業などの貿易可能なセクターでは雇用が減少していることを明らかにした。ピーター・ハラストシ欧州投資銀行エコノミストとアッティラ・リンドナー英ロンドン大助教授は、最低賃金上昇による雇用の減少は、賃金上昇分を消費者に転嫁できない産業で高いことを示した。これらの結果は、最低賃金上昇による雇用調整は川下の財市場の競争度合いに左右されることを示唆する。

この20年、日本の物価上昇率は著しく低かったが、最低賃金は約1.4倍に上昇し、パート労働者の時給も呼応するように伸びている。政府は現在902円の最低賃金全国加重平均を1000円にまで引き上げることを目標に掲げる。最低賃金上昇のコストは誰かが必ず負担することを考えると、特定のグループが過度の負担を負うことなく、企業、労働者、消費者が広く負担を分担していくことに合意することが最低賃金引き上げの鍵になるだろう。

2021年5月25日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2021年6月15日掲載

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