技術変化は格差を縮める

小林 慶一郎
上席研究員

所得格差の拡大と高齢化の進展は我が国だけでなく世界的な課題である。今回は時間軸を数十年と長期にとって、こうした問題を市場経済そのものが緩和する「自己復元力」について考えたい。出発点は1990年代末から米マサチューセッツ工科大学(MIT)のダロン・アセモグル教授が提唱している「方向づけられた技術変化」理論(Directed Technical Change、DTC理論)である。

先進国では70年代から所得格差の拡大が進んだ。日本でも80年代から格差が拡大し、2000年代から社会問題になった。MITのデービッド・オーター教授らの06年の論文などによれば、米国の労働市場は二極化(キーワード参照)が進んでいるとされる。だがこのトレンド(傾向)が永久に続くとは限らない。

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通常、経済学では技術進歩の方向性は自然科学や工学によって決まり、経済や社会の状態とは独立していると想定する。DTC理論が斬新なのは、市場経済の状態によって技術変化の方向が決まると考えた点てある。この理論によれば、現在の技術トレンドは格差拡大という市場の状態に反応し、いずれ方向が変わるかもしれない。長期的には格差縮小に向かう技術トレンドになると思われる。

アセモグルの理論のエッセンスは単純である。企業は利潤を最大化するように研究開発を進めるので、豊富に存在する生産資源を使い、希少な生産資源を節約するような技術を開発しようと努力する。結果的に豊富な生産資源を重点的に使い、希少な資源を節約する方向に技術変化が進む。これが市場における資源の多寡によって「方向づけられた技術変化」の理論である。

例えば米国で大卒労働者と高卒以下の学歴の労働者との賃金格差が拡大した原因は大卒人材の供給量が増えたことだ、と説明できる。高等教育の普及で大卒者が短期間に増え、大卒人材は以前より相対的に安価になった。企業は人数の増えた大卒をもっと活用するように技術開発の方向を変え、その結果、大卒労働力への需要が増加し、賃金が上昇して格差が拡大した。

長期的な所得格差の変動も同じ理論で説明できる。18世紀の蒸気機関の発明による産業革命により技術パラダイム(枠組み)の変化についていけない大量の未熟練労働者が生じた。その結果、19世紀前半には格差が拡大した。

その後、19世紀後半から20世紀前半にかけて格差は縮小する。企業は大量で安価な未熟練労働者を活用し、高価な職人の労働力を節約するため、大量生産などの技術を発展させ、未熟練労働中心の生産技術が普及したためだ。この変化の結果、未熟練労働に対する需要が増え、彼らの賃金が上昇し、中間層を形成するようになった。

これは「格差循環」と呼ぶべき考え方である。科学の進歩により情報化など技術体系の変化が半世紀~1世紀に1回起きる。その際、少数の勝ち組(新技術体系における高スキル人材)と変化についていけない多くの人々(低スキル人材)との間で所得格差が開く。だが、やがてそれを縮小させるよう技術進歩の方向性が変わる。その結果、格差の拡大と縮小が繰り返される「格差循環」が発生することになる。格差は拡大の一途をたどることなく、いずれ反転して縮小する。市場は自己復元力を持つのである。

格差の拡大と縮小についてはクズネッツ・カーブ(キーワード参照)という説もある。この理論は、格差の拡大と縮小は18世紀から20世紀にかけての近代化にともなう1回限りの現象だとみる。格差は拡大と縮小を何度も繰り返すとみる格差循環の考え方は、その一般化ともいえる。

技術変革期に格差が広がり、その後、縮小する理論モデルは他にも存在する。例えばハーバード大学のフィリップ・アギヨン教授の論文は、幅広い分野に応用できる基幹技術が置き換わる過渡期に、企業や労働者がどのように適応するかを分析した。

それによると環境変化への適応力が問われる初期には学習能力の高い高スキル人材が必要とされ、格差が広がる。しかし新技術が普及すると高スキル人材の必要性が低くなり格差は縮小する。この理論では、新技術の普及自体が賃金格差を縮小させる。これに対し、DTC理論は技術進歩が方向を変えて格差を縮小させるという市場の自己復元力を強調する点で異なる。

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では今後の日本や世界で所得格差はどうなっていくのだろうか。近年の研究を総合すると、現在の格差拡大が意味しているのは、情報化という新しい技術パラダイムにおける低スキル労働力が安価に大量に供給されつつあるということである。

定型的な事務作業をしていたホワイトカラーは、情報化前には中間層だったが、情報技術が普及すると仕事をコンピューターに奪われ、低スキル人材となる。一方、情報化時代の高スキル労働力(創造的な知識労働)はますます高価になる。これは19世紀の格差拡大の局面と似ている。

DTC理論から今後数十年を展望すると、高スキルの労働力を節約し、低スキルの労働力の使用を増やす方向に技術変化が進むと思われる。人並み外れた創造性を持っていない普通の人でも、情報技術を使ってなんらかの財・サービスを生産できるよう技術体系が変化すると予想される。そうなれば低スキル労働カヘの需要が高まり賃金を押し上げるので、所得格差は長期的に縮小していくはずである。

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少子高齢化の分野でもDTC理論から技術革新について重要な示唆が得られる。今国会で消費税の増税が固まりつつあるが、税や年金制度の改革はあくまで財政の問題であり、65歳以上人口と現役世代人口の比率がほぼ1対1になる「肩車型」社会が今世紀半ばにはやってくる。

高齢者の医療や介護を担う若年労働力が高齢者1人当たりで現在の3分の1になる。もし介護の技術が労働集約的なままなら、サービスの供給が不足して価格が高騰し、年金制度が現水準で維持されても高齢者の生活は悪化する。介護の価格を厚生労働省の規制で抑え続けても、サービスの供給量が減り、待機時間が大幅に増えるなど生活水準が悪化する点は同じだ。

DTC理論によれば、企業は希少な労働投入を節約し資本投入への依存度を高める方向に高齢者ケア産業の技術構造を変化させるはずである。したがって日本で企業が追求すべきことは、医療や介護などのサービスを資本集約的な産業に変えるための技術開発(介護労働者用のロボットスーツや介護ベッドの機械化など)であると考えられる。このような技術変化が起きれば、高齢者の生活水準の向上や介護労働者の賃金上昇などが実現し、高齢化をめぐる困難の多くが緩和される。

企業の利潤動機にもとづく技術開発が、最終的に所得格差や高齢化の困難を緩和する。市場経済は単に価格調整によって均衡を実現するだけでなく、技術変化の方向を変えることによって人々の厚生を高め得る。現世代で完全には実現できなくても、次世代では市場の自己復元力が社会を改善する。そこに困難な時代の希望があるといえる。

キーワード

  • 【労働市場の二極化】
    中間所得層が、高所得層と低所得層に二極分解すること。高所得層と低所得層の間で所得の格差が拡大する現象もともなう。コンピューターの導入により、企業経営者や創造的な仕事に携わるクリエーターなど高い技能を持った人材は生産性を高めて高所得化したが、特別な技能を持たない人材はコンピューターに仕事を奪われ、低賃金化したとされる。
  • 【クズネッツ・カーブ】
    経済発展にともない、国民1人当たり生産量が増えるにつれて所得格差が拡大し、その後、縮小する現象を曲線(カーブ)で表したもの。近代化により農業社会が工業社会に変わるにつれ所得格差が広がるが、その後、人々の工業化への適応や社会保障政策が進展し、所得の不平等度が低下するという、経済学者サイモン・クズネッツの説を表現する。

2012年7月23日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2012年7月31日掲載

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