認知的制約がバブル作る?

小林 慶一郎
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

人間は期待形成や意思決定をする際、限られた情報収集能力・時間・思考力などの制約を受ける。これらの認知的な能力や持ち時間を「認知的資源」と呼ぶ。人間はこの有限な認知的資源をもっとも合理的に使おうとする。この意味で、人間は「資源合理的(Resource rational)」である。

近年、人間の認知的資源の有限性に着目した研究が認知科学・心理学・神経科学・人工知能(AI)研究などの分野に広がる。これらを総称して「資源合理性」の分析という名称も提唱されている。経済学での資源合理性アプローチをいくつか紹介し、資源合理性が貨幣バブル(デフレ均衡)などの研究に与える影響を考えたい。

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マクロ経済学で認知的資源の有限性を初めて強調したのは、米プリンストン大学のクリストファー・シムズ教授が2000年代初めに提唱した「合理的不注意」の理論である。人間は有限の注意力を有効に使えるよう、注意の対象を限定するため、完全合理性からのずれが生じると指摘した。

米コロンビア大学のマイケル・ウッドフォード教授も12年の論文で、人間は有限の認知的資源を最適に使おうとするため、主観的な事前予想(参照点)と実際の結果との差に反応するようになると論じた。

その結果、人間の行動に「参照点依存性」が生じるという。参照点依存性とは例えばコップが空の状態を参照点とすると、コップ半分の水は「多い」と感じられるが、満杯の水を参照点とするとコップ半分は「少ない」と感じられるという効果である。

経済行動の参照点依存性は、行動経済学の「プロスペクト理論」でも広く知られる。ウッドフォード氏は参照点依存性の発生を、資源合理性で説明できると主張したわけである。

また米ハーバード大学のグザビエ・ガベ教授とデビッド・レイブソン教授は22年の論文で、未来における価値を現在よりも割り引いて評価する時間割引が、不完全情報や認知的能力の有限性によって説明できると論じている。本当は未来の価値を割り引く性向を持たない人でも、遠い未来ほど予測の情報に混じるノイズが大きくなるため、結果的に未来を割り引いているのと同じ行動を取るという。

AIの発展も経済学に影響を与える。米ペンシルベニア大学の大学院生アーテム・クリクシャ氏の21年の論文では、モデル内の「人間」は多層構造のニューラルネットワークを持ち、それが経験したデータから深層学習を行う。つまり、最近のAIと同じ原理で人間の期待形成が行われると仮定したモデルである。

経験からの学習による期待形成なので、経験の違いが期待の違いを生む。結果として過剰に貯蓄する人々と、全く貯蓄しない人々が共に生じ、格差が拡大することが示されている。

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ここまで紹介した研究では、人々の期待が「完全に合理的」ではないという点がテーマであった。

現代マクロ経済学は合理的期待理論に基づいている。その構成要素である「完全合理性」とは、人間は全ての情報を完全に合理的に活用して意思決定ができるという仮定であり、そこには「人間の認知的資源は無限にある」という暗黙の仮定がある。この仮定に疑問を呈し、現実に近づけようとするのが、認知的資源の有限性を重視する資源合理性のアプローチといえる。

合理的期待理論は「完全合理性」だけでなく「再帰性」という性質を持つ。

図:期待形成の再帰性とは

期待の「再帰性」を、政府Gと市場参加者Mの例で考えよう。これは17年2月20日の本欄で論じた例である。GはMがどう考え、反応するかを予想して政策を立案する。ここでGが持つ期待(期待G)は「『Mが持つ期待』についてのGの期待」である。

逆にMは、自分の行動がGの政策にどう影響するかを考えながら、政策に反応する。ここで「Mが持つ期待」とは「『期待G』についてのMの期待」である。

つまり期待Mは期待Gによって決まり、期待Gは期待Mによって決まる。期待Gの定義には、期待Mを介して期待Gが入っている。自分の定義の中に自身が再帰しているという、この性質を「再帰性」と呼ぶ。

期待の再帰性が、資源合理性アプローチの発展のカギになると思われる。

不完全情報と再帰性が均衡の性質を変える可能性は、グローバルゲームや高次の信念の理論などで指摘されたが、ほかにも認知的資源の制約に、期待の再帰性が絡むと、有限の取引期間の経済でも無価値な紙切れが貨幣として流通するという貨幣バブルが起きることが知られている(カナダ銀行のジャネット・ファ・ジャン主任研究員たちによる24年の論文など)。これが驚くべき結果であることは、完全情報の状態を考えると分かる。

取引の回数が有限の経済では、最後の回に紙幣を受け取った人には、次の取引のチャンスはない。だから最後の回に紙幣を受け取る人はいない。そのことが分かっているから、最後から2番目の回にも紙幣を受け取る人はいない。最後の回に紙幣を渡す相手がいないからだ。

最後から2番目の回に誰も紙幣を受け取らないなら、最後から3番目の回にも紙幣を受け取る人はいない。このような連鎖を続けると「紙幣を受け取る人は最初から誰もいない」という状態になり、紙幣は流通しなくなるのである。

ところがジャン氏らは、有限回の取引の中で「自分の取引が何回目の取引か分からない」という不完全情報を入れると、人々が紙幣を受け取ることを示した。「今回の取引で紙幣を受け取っても、次の回に紙幣を使えるチャンスがあるだろう」と、全ての回で人々は考えるからである。これは最後の回でも成り立つ。

例えばAとBの2人の世界では「これが最後の回か分からない」とAが考えている、とBが考える。同様に「これが最後の回か分からない」とBが考えている、とAも考える。さらに「相手が私の考えを読んでいることも分かっている」とお互いに了解しているという再帰性も成り立つ。

不完全情報が、期待の再帰性によって伝播(でんぱ)するため、有限回の経済でも無価値な紙切れが貨幣として流通するのである。

この貨幣バブルの仕組みを応用すれば、2000年代の日本で、金融緩和によって貨幣供給を増やし続けたのにもかかわらずデフレが続いたことを説明できるかもしれない。

デフレとは、財・サービスに比べて貨幣の価値が相対的に上がることである。貨幣供給を増やせば貨幣の価値は下がるはずだが、それが上がったことは、貨幣バブルの発生を示唆している。

資源合理性のアプローチは、再帰性に注目することで、合理的期待理論に新たな展開を生む大きな可能性を秘めているのである。

2024年10月8日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2024年10月16日掲載

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