経営と現場の一体化にひそむ落とし穴―会社が目指すべきもの―

小林 慶一郎
研究員

先月号に「会社はだれのものか」というテーマで論文を執筆したが、その原稿を書き終えた直後に、尼崎の列車脱線事故が発生した。

107人の尊い命を奪い、549人の負傷者を出した事故の事実は、人の命を預かる企業がいったいどれほど重い責任を負っているか、ということをあらためて認識させた。それは、日本企業の組織運営のあり方を根本的に問い、私たちに真剣な反省を促している。JR西日本という特定の企業を通して、会社は何を目指すものなのか、どのようにしてその目標を達成していくべきなのか、を考えてみたい。

安全が最優先課題

今回の事故だけではない。最近多発する航空会社のミスやトラブル、原発の配水管破裂事故など、企業の安全対策を巡る問題が最近、特に目につくようになった。経費削減や利潤優先の陰で、当然なされるべき安全対策がおろそかになっているのではないか、と不安になる。

安全が重要なのは、鉄道や航空会社だけに限らない。家電製品や食品のように、日常あたりまえのように使っている商品やサービスでも、企業の安全対策が不適切だったら、人命を脅かす重大な事故につながる可能性がある。だから、安全対策はあらゆる企業活動の当然の前提といえる。

安全と利益は、一方を高めると他方が低くなるというトレードオフの関係にある。多くの人はそう考えるだろう。企業にとって安全確保のコストを増やせば利益が圧迫される、というのは短期的には真実である。

利益を拡大するためには、安全面も含めて、経費の削減が必要になる。経費を節減するためには、(1)設備は従業員の稼働率を上げる(2)安全のために必要な設備投資を減らす(3)従業員の増加を抑える、という3つの方法しかない。

JR西日本は、この3つのすべてを実践していた。第一に、過密なダイヤ編成で列車や運転士の稼働率を上げようとした。第二に、列車の速度超過を感知して自動的にブレーキをかける新型ATS(自動列車停止装置)の設置を遅らせ、設備投資費を抑制しようとした。第三に、運転士の採用数を長期間にわたって減らしたため、30歳代~40歳代のベテラン運転士が少なくなった。その結果、若く、経験の少ない運転士が、過酷なスケジュールのもとで通勤電車を任されることになった。勤務に就く運転士の健康状態や精神状態を事前にチェックして、問題があれば乗務させないというような人事管理もできていなかったのではないか。

安全に関する設備や人事のコストを削りに削った結果、不慮の事態に対応できなくなった、というのが今回あらわになったJR西日本の問題であると見える。

もしも新型のATSが宝塚線のカーブに設置されていたら、ダイヤに余裕があって無茶なスピードを出さなくても遅れを取り戻せるのだったら、また、当日の朝、事故の前に3度も非常ブレーキを作動させていた運転士が乗務を交代していたら、こうした悲惨な事故は起きなかったかもしれない。

企業は利益を大幅に犠牲にしても、顧客の安全を最優先にすべきだ。これが今回の事故で多くの人々が感じた思いだろう。

利益がなければ安全も守れない

これまでのずさんな安全対策をJR西日本が猛反省すべきなのは、いうまでもない。過去数年間、多額の利益を計上していながら、安全のためのコストを出し渋っていた、という点については、申し開きはできないだろう。

しかし、利益と安全の関係を、企業一般の問題としてとらえるとどうだろうか。事故を起こしていない他の一般企業では、「安全も大事だが利益も必要だ」というのが本音ではないだろうか。安全よりも利益を優先する、というのは許されないことだが、利益をまったく度外視するわけにもいかないのも、また一方で現実である。

第一に、利益がなくなると会社は存続できない。会社の存続が危うくなれば、そもそも安全への投資をしたくてもできなくなる。現実の世界では、会社が持っている資源や時間は有限の量しかない(資源の稀少性)。その稀少な資源と時間をやりくりして、顧客に商品やサービスを提供し、同時に、安全対策もとらねばならない。

言い換えれば、利益とは、有限の資源や時間を、いかに上手くやりくりできたか、という効率を計る指標でもある。利益や効率をまったく度外視して無限に安全性を追求すれば、企業は商品やサービスを提供できなくなってしまう。利益を度外視して安全対策を充実させることは、やりたくてもできないということだ。

第二に、「利益と安全は対立する」という通念も、必ずしも正しいとはいえない。本来は利益追求と安全確保は両立できたはずなのに、何らかの構造的な問題で、安全が軽視されることになった可能性もある。

たとえばJR西日本は、企業内の組織設計がうまくできていなかったのかもしれない。英国でも、国有鉄道が民営化された後に、通勤電車などで深刻な事故が多発した。しかしその原因は、民営化して利益優先になったから、とは言い切れない。鉄道の運行と施設整備とを別会社が行うようになって、意思疎通がうまくいかなくなった。必要な安全対策を実施すべき主体があいまいになり、対策が後手に回った。企業組織の設計を誤ったために、安全対策に穴があいたのだ。

JR西日本の場合も、同じような問題が起きていたのではないか。もし、本当に合理的な企業組織だったら、事故が起きれば莫大な利益が失われると予想できたはずだ。

それに「安全である」という信頼は、企業にとって利益そのものでもある。安全への信頼が多くの顧客を引き寄せ、長期的に企業の利益を増やす。安全は企業にとって、非常に価値の高い「ブランド」であるともいえるだろう。

安全ブランドを構築するためのコストだと考えれば、安全対策にコストをかけることは、企業にとって、長期的には十分に採算のとれる投資になっている。つまり、利益追求と安全第一は矛盾しないはずなのである。

組織設計が正しくなされて、長期的な得失まで考慮した合理的な企業なら、利益と安全のバランスが崩れることはない、と言えそうだ。では、なぜJR西日本ではそうならなかったのだろうか。

なぜ利益絶対主義に陥るのか

まず、短期的には、安全と利益は対立する。短期的な利益を優先しようとすれば、経費削減によって安全がおろそかになる。しかし、長期的に考えれば、安全と利益は矛盾しない。安全は企業のブランドになるし、安全だからこそ顧客が増えて企業の利益が増える。

そこまで考えれば、企業が安全対策をおろそかにすることはないはずだが、残念ながら現実の企業組織は完全に合理的なものにはなり切れない。特に、これまでの組織を改革して新しいものに変えようとすると、どこかに想定外の影響が出てくることもある。合理的な鉄道会社の組織形態という「正解」があらかじめ存在しているわけではなく、企業の組織設計も試行錯誤から逃れられない。

したがって、現実の企業組織は様々な欠陥を抱えているのがふつうだ。その欠陥をカバーするのが、現場の使命感やモラルという感性だが、それらを維持するのは容易ではない。組織改革の小さな間違いや目標設定の変更で、モラルダウンが続いてしまうこともある。

たとえば「成果主義」が日本企業にもたらした弊害が指摘されている。「成果主義」とは、従業員の業績を客観的指標で点数付けし、給与を点数に連動させる人事システムで、最近の日本企業で導入が相次いでいるという。会社の中での個人の仕事内容は、非常に複雑で、そのときの状況や仕事相手などに左右されて、とらえどころのない面がある。それを定量的な点数で客観的に評価しようとしても、現実には極めて困難だ。ある大企業では成果主義を強行した結果、評価基準が人事部のお手盛りになり、人事部関係者だけが不当に高い評価を受ける、ということになった。社内全体に不満が蓄積して、現場社員のやる気が低下し、会社全体の業績悪化にまでつながったという。

「安全ブランド」が、企業の長期的な利益につながる、という点にも落とし穴がある。安全ブランドがいったんできると、企業はそれにタダ乗りしたい、という誘惑に駆られるからだ。日頃の安全対策は、人目につかないところで行う地道な作業だ。商品やサービスを受ける顧客にとっては、通常、目に入らない。だから逆に安全対策で企業が多少手を抜いていても、顧客の目には触れない。顧客は企業が手抜きをしていると分からないから、事故さえ起きなければ安全ブランドは壊れない。こうした「情報の非対称性」にあぐらをかいて、企業が慢心すると、本当に危険な状態になるか、悲惨な事故が起きるまで、企業は安全対策の手を抜いてしまう。

こうしたことから、やはり、企業の組織設計や合理性に期待するよりも、現場の規律とモラルをいかにして維持するか、という問題が重要になってくる。

現場に必要な「使命感」

現場のモラルと規律を高め、企業の中で安全と利益を両立させようとする際に、問題になるのは次のような考えかもしれない。企業がある目標を達成しようとするとき、「経営陣も従業員も一丸となって同じ目標を追求する」という姿が正しい、と思われがちだ。しかしこの考えは、設定される目標が「利益」である場合は、間違っているかもしれないのである。

先月号の論文で、会社の中の社員を動かす倫理体系と、市場の中での企業の行動を規定する倫理体系はまったく異なるものであることを論じた。会社の中で社員のモラルや規律を支えるのは、共同体的な「統治の倫理」であり、軍隊的な仲間意識や忠誠心、自己犠牲が高い価値を持つ。それに対して、市場における企業の行動を律するのは「市場の倫理」(商道徳)であり、それは契約の誠実な履行などは前提としつつも、最終的には金銭的利益を追求するものである。

社員が自己犠牲や規律を維持するためには、「自分たちは金銭的利益よりも崇高な使命のために働いている」という使命感を持つことが必要だ。人間は、金銭的利益のために、自己犠牲的な行為を行うことはできないからだ。

株主利益を至上の目的とする敵対的企業買収が問題なのは、この点にあった。つまり、買収者が「金銭的利益が企業の究極目標だ」という価値観を持ち込むと、「自分たちは使命のために働いている」という社員の意識を破壊してしまう。その結果、社員のモラルが低下し、様々なミスなどを誘発して、会社全体の業績を悪化させてしまうのである。これと同型の問題が、JR西日本で起きていたのではないだろうか。

報道によると、事故の前にJR西日本大阪支社では、「稼ぐ」ことが会社の第一目標である、とする社内文書が社員全体に配布されていた。経営トップだけでなく、運転士や駅員などの現場の社員も一丸となって利益追求に邁進しよう、と社員を鼓舞するペーパーである。こういう社内向け文書が出される背景には、経営トップから現場の運転士や駅員まで、同じ目標―利益追求―を持つべきだ、という考え方がある。

そしておそらく、利益を第一目標とする意識は、現場社員まで広く共有されていたのに違いない。

そう推察するひとつの根拠は、事故後に露呈した不祥事―事故当日に近辺の区域を担当するJR西日本の職員が、ボーリング大会や宴会に興じていた、という事実である。もし、現場の職員まで含めて、利益追求が究極目標である、という意識が共有されていたのだとしたら、事故当日にボーリング大会や宴会が行われたこともうなずける。直接の担当者以外の職員が宴会を自粛したところで、会社の利益が増えるわけではないし、事故救援の業務の効率が上がるわけでもない。利益や効率の観点からは、宴会を自粛する理由は見つからないのである。

しかし、顧客を安全に運ぶ、という使命感が現場職員の第一のモチベーションだったら、宴会を続ける、ということに大きな抵抗感が湧き上がったはずだ。使命感を支えるのは顧客や仲間に対する深い「共感」の存在である。こうした大事故や大災害のときには、その場にいあわせた人々の間に特異な共感が作用することが知られている。同じ車両に乗り合わせて生き残った人は、共に乗車していた人々が死に、自分が生き残ったということに対して罪悪感を持つ。現場に駆けつけて救援活動をおこなった人は、自分がもっとなにかできたのではないか、と自責の念にかられる。通常の理屈では自分を責めるべき理由のないことに対して、深い責任を感じる。そこには市場の関係性を超えた「共感の原理」とでもよべるものが作用している。

事故当日の宴会などの不祥事は、こうした「共感」の作用への感受性が、JR西日本の現場職員に欠如していたことを示しているのではないだろうか。利益や効率に結びつかないような「使命感」や「共感」にまったく価値をおかない形式主義、官僚主義が、JR西日本に広がっていたように見える。先月号で使った用語でいえば、利益追求を究極の目標とする市場の論理が、現場職員の共同体的な倫理体系を浸食してしまった姿がそこにはある。

最近の経済学の理論でも、「社員が利益以外の目標を追求する会社は、結果的に、利益を最大にすることがある」という指摘がされている(松井彰彦『慣習と規範の経済学』東洋経済新報社)。利益追求を目標とすることと、結果として利益が最大になることとは、同じではない。

顧客を安全に運ぶ、という使命感が忘れ去られれば、今回の事故が示したように、安全コストを惜しんで得た利益など吹き飛んでしまう。顧客を安全に運ぶという使命感は、利益追求という目的と両立しないのだ。むしろ現場の職員は、利益をまったく度外視して「使命」に邁進できる、という心理状態でなければ、安全への注意が不十分になってしまう。そうなると、ミスが増え、今回のような大事故が起きる確率も高まる。つまり、現場の職員までもが利益追求を第一に意識するようになると、結果的に会社の長期的な利益は損なわれてしまうのである。

経営陣が長期的な利益を達成しようと思ったら、運転士や駅員が「自分の仕事の目標は利益ではなく、もっと重要な使命だ」と思える環境が必要なのだ。経営陣のもっとも重要な役割は、従業員の使命感を高める環境を作ることだと言ってよいだろう。

これは、たたき上げの経営者が多い日本企業では、おそらくいちばん間違えやすいポイントだ。「経営トップから末端の社員まで同質のサラリーマン」という意識が根強い前提としてあるからだ。トップから現場まで社員が一丸となることで、社内のいろいろな改革が進むことも確かだろう。会社の存続と発展に責任を持つ経営陣が利益を確保したいと願うのもしかたがない。しかし、現場の職員まで一丸となって追求する目標が「利益」となると、現場の使命感や倫理感が壊されてしまうのである。

組織設計の問題や安全投資の不備もあるが、もっとも致命的な間違いは、経営陣と現場の社員は別の目的意識を持つべきだ、という点に気づかなかったことではないだろうか。

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2005年7月号『論座』に掲載

2005年7月20日掲載

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