カイシャに「幻想」を抱けますか?

小林 慶一郎
研究員

ライブドアとフジテレビの争いは、2カ月間の攻防の末に和解で決着した。業務提携などが両者で進められるというが、これまでの経緯や、互いに残っているに違いない感情的なしこりなどを考えると、今後、業務提携が中身を伴うものになっていくとの現実味には乏しい。結局、今回の件は「本質は利ざや狙いのマネーゲーム」だったと評価されることになるだろう。

しかし、この騒動は日本の企業社会に様々な問題を提起した。証券取引ルールの問題、買収防衛策のあり方、メディアの公共性など多くの論点が残されたが、なかでも特に興味深いのが、「会社とはだれのものか」という根本的な問題だ。

会社は株主のもの?

株主や投資家の立場では「会社は株主のもの」という見方が当然視されている。細かい議論を脇におけば、法律上も会社の実質的な所有権は株主にある。この「当然」の見方に異を唱える議論が吹き荒れたのには、ライブドアの堀江社長もきっとあきれ果て、相当にうんざりしただろう。

会社は株主のもの、と考える際のポイントを整理しよう。

ふつう、経済学などで企業を考えるとき、その存在目的は「利潤の最大化」であるとされる。そして、その利潤は最終的には株主に帰属する。つまり、会社の存在目的は株主の利益を最大化することなのだ。

もちろん、社員が仕事に対して「やりがい」を持って働くことや顧客が会社から高い満足を得ることは、会社にとって重要だ。しかし、社員や顧客が本当の意味で重要なのは、彼らが会社に利益をもたらし、最終的に株主の利益を最大化してくれるからだ。

逆に言えば、株主の利益を損なってまで、会社が社員に気を使ったり、顧客に利益を与えたりすることは、会社の存在目的に反している。株主の利益を最優先し、社員や顧客の問題を、株主の利益に沿って対処することが、会社として当然の行動なのだ。

また、なにが株主の利益になるかは株主自身が一番よく知っているのだから、株主の利益を最優先するということは、株主の意思を最優先するということでもある。こうした考え方からすると、会社の事業内容の再編、経営陣や社員のリストラなどは、当然、株主の「考え」にしたがって行われるべきだということになる。

たとえば、ライブドアがニッポン放送を子会社化する場合のように、株主が会社の事業(ラジオ放送)について専門的な知識がないときも、誰に経営を任せるべきか、は株主が決める。既存の経営陣に続投を求めるか、新しい経営専門家を招くか、その選択をするのは株主の当然の権利だ。

また、最近の経済学の理論は、会社を「プリンシパル・エージェント・モデル」つまり「本人と代理人のモデル」として扱うようになっている。会社の経営陣や社員は、あくまで株主という「本人(プリンシパル)」の利益を最大化させるために働く、株主の「代理人(エージェント)」にすぎない。それが会社の基本形だ、という考え方である。

会社は社員や顧客のもの?

こうした考え方に対して、伝統的な日本企業やサラリーマンの見方は違うだろう。むしろ「会社は社員や顧客のもの」というのが実感に近いはずだ。それを代弁するとこうなる。

経済学の世界では、会社は株主のもので、会社の目的は株主利益の最大化かもしれないが、現実は違う。まず、創業者や社員のやりたい事業があり、そのために資金が必要だから、株式市場で投資を募り、株主を集めるのだ。

創業者が株主の場合は、たしかに会社は株主のものと言っていいかもしれない。しかし、上場してサラリーマン経営者が経営する会社にとっては、株主は銀行などの債権者と同じく資金の出し手に過ぎないのが実態だ。

そもそも、会社の存在目的は利潤の最大化なのだろうか?

多くの会社の定款などには、事業を通じて社会に貢献したい、という会社の設立目的が掲げられている。これは単に表向きの無意味なお題目ではない。普通の人間は、金銭的利益だけのために働くことなどできないのだ。会社の事業内容に、何か公共的な意義がなければ、社員はやる気を持てない。また利益だけを目的にする会社に、普通の人は人生をかけようとはしないだろう。

また、株主の意思を尊重すれば株主の利益が増進する、という見方も単純すぎる。たとえば、株主にとっての利益も、短期の利益か長期の利益かで違ってくる。長期的にみれば、社員がやる気を持ち、多くの顧客が高い満足度を感じるような事業をする方が、会社の価値も上がる。短期的に株主の利益になることをやれば、長期的に株主自身の首を絞めることになる場合もある。経済学が想定する「完全市場」が存在するのであれば、株主が近視眼的に短期の利益を追求しても、企業価値は損なわれないかもしれないが、現実の企業社会ではそうはいかない。株主が短期的に利益を受け取って会社を売り払おうとすると、通常、会社の中身は大きく傷つき、価値が損なわれてしまうからだ。

だから、会社の経営は、株主の思い通りにやるべきではない。経営陣、社員、顧客の総意で、経営の方針は決まってくる。その結果、利益が上がれば、株主は出資者として利益を受け取るだけだ。

経済学でも、株主権のことを残余請求権ということがある。賃金支払いや債務返済のあとに残る会社の残余利益を請求する権利のことだ。つまり、事業の内容はあくまで経営陣や社員が決めるのであり、株主は残余利益の請求権を持つに過ぎない、とみるべきなのだ。

双対性―2つは実は同じ?

さて、これら2つの主張の、どちらに理があるのだろうか。

会社は誰のものか、という問いかけを「株主の利益」と「社員のやる気や顧客の満足度」のどちらを優先すべきなのか、という問題だと解釈すると、実は、両方の立場は必ずしも矛盾しない。

同じことを反対の側面から言うと、まったく逆のことを言っているように聞こえることがある。会社は株主のもの、という立場と、会社は社員や顧客のもの、という立場は、実はそういった関係にある。

社員や顧客の満足を株主の利益に従属させ、株主の利益を最大化する会社と、株主の利益を最低限に抑え、社員や顧客の満足を最大化する会社は、実はまったく「同じ」なのである。「同じ」とは、事業内容の選択や社員の配置について、同じ選択を行うはずだ、という意味である。外からその会社の行動を見る限り、株主の利益を最大化しているのか、社員のやる気や顧客満足度を最大化しているのか、区別することはできない。

このように、まったく逆に聞こえるのに、実は同一のものだった、という関係を、双対関係という。双対関係の例は、もっと簡単な例で見ると分かりやすい。

ある製品を製造するときに、「コストを一定にして生産量を最大にする」という問題と、「生産量を一定にしてコストを最小にする」という問題は、言葉は違うが、まったく同じ内容だ、ということは分かるだろう。どちらも、「製品ひとつあたりの製造コストを最小にする」といってるに等しい。どちらを解いても、材料の比率、仕入れ先、販売先の選択などは、まったく同じになる。

同じように、株主利益の最大化と、社員の満足度の最大化は、双対関係にある。だから、株主利益を最大化する会社と、社員の満足度を最大化する会社は、結果として同じ選択をするはずなのである。もう少し正確にいうと、2つの会社では株主と社員の間に分配される利益の割合は異なる。だが、それは会社というパイをどう配分するか、という問題であり、パイそのものの性質や大きさはどちらの場合も同じになるのである。これは、企業の問題を経済学的に定式化し、「本人と代理人の問題」として考察すると示されることのひとつだ。

こうみると、株主と社員のどちらを主にし、どちらを従にしても、会社のあり方は、あまり変わらない。理論的に考えるとたしかにそうなのだが、では、「会社はだれのもの」という論争は無意味かというと、そうでもない。問題はもっと奥深いところにあるようだ。

自己犠牲という難題

問題は、会社がときとして社員の自発的な自己犠牲を必要とする、ということだ。

たとえば、顧客のクレームに対応するために、深夜や土日に残業が必要になることがある。会社が残業代や休日手当などで金銭的に補償をしなければならないのは当然だ。しかし会社員が、仕事のために、お金では取り返せない犠牲を家庭や私生活で払うことはあり得ることだ。

社員が自分の生活を優先し、顧客の要求に対応しなければ、会社の信用が落ち、利益も上がらなくなる。社員みんなが自分を犠牲にせずに会社も順調に行けば理想的だが、そんなことは現実には少ない。社員の誰かにしわ寄せがいく。そのしわ寄せを不当なことだと考えずに献身的に仕事を処理してくれる社員がいなければ、会社は立ちゆかなくなる。どのような会社も多かれ少なかれ、社員の自己犠牲に支えられているのである。

では、社員はなぜ自己犠牲をいとわないのだろうか。

もちろん、将来の出世など、自己の利益を高める思惑があるのは当然だろう。しかし、それだけでは適切なタイミングで必要な行動が出てこないこともある。やはり、顧客への信義や会社への忠誠心、仕事への志といった倫理感に支えられているからこそ、社員はときとして犠牲的な行動をとることができるのだ。

しかし、信義、忠誠、志という倫理的価値は、金銭的な自己の利益とまったく相容れない倫理体系に属している。利益を追求する会社の社員を、自己の利益を否定するような犠牲的行動をとるように仕向けるには、利潤動機と異なる規範が必要なのである。

人間は生来の特徴として、相異なる2つの倫理体系を持っている、という説がある(ジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』、日経ビジネス文庫)。人間は、性質の異なる2つの活動をおこなう動物で、それぞれの活動に対して別々の倫理規範を持つのだという。2つの活動とは、モノを「とる」ことと、モノを「交換する」ことである。

モノをとる活動とは、自然や敵からモノを獲得し、仲間に分配する活動であり、人間以外の動物もおこなっている活動である。それに対して、モノを交換するという活動は、人間に固有の活動だ。同じ価値のモノを交換する行為は、市場での商取引であり、それを律するのが「市場の倫理」すなわち商道徳である。市場の倫理の体系では、「契約を守る」ことが美徳とされ、その倫理体系の目的は誠実な商行為を動機づけることにある。また、自己の利益の追求が究極の目標とされるため、市場の倫理の中では、自己犠牲を動機づけることはできない。

一方、モノをとり、分配する活動は、共同体の統治行為の基本型だ。現代社会では、軍隊やスポーツのチーム、企業などの組織の運営が、そうした活動の典型例である。共同体内部の統治活動を規律づける倫理体系が、「統治の倫理」だ。統治の倫理の体系では、個々人ではなく、その属する組織が成果をあげることが究極の目標とされる。したがって、個々人の自己利益は軽蔑され、自己を犠牲にして仲間を救うことが最大の美徳とされるわけである。

これは共同体の統治、あるいは企業の運営という活動が、どうしても構成員の一部に犠牲を強いてしまう、という(企業活動そのものの持つ)本来的な性質に由来している。構成員が自己犠牲を自発的におこなうよう仕向けるために、自己犠牲を賞賛する倫理規範が必要になるわけだ。

そして、そうした倫理規範を維持するためには、その組織(共同体や企業)が、構成員にとって、自分を犠牲にしても守るべき崇高な価値を体現している、と認識されなければならない。企業の存在理由が金銭的利益の最大化だとしたら、それが自分を犠牲にしても守るべき価値だと、社員が思うことはできないだろう。会社が社員から忠誠や志の対象と見られなくなれば、社員の自己犠牲もなくなってしまう。そうなると会社は存続できなくなる。

つまり、会社は、外との関係では市場の論理で利益を追求していても、その内部は共同体的な倫理規範で運営されることが必要な存在であるといえる。もし株主が、会社の「内部」に金銭的利益を至上価値とする「市場の倫理」体系を持ち込むと、共同体的な内部の倫理規範が壊れてしまう。

「幻想」がもたらす利益

株主利益を優先する買収が大きな反発を呼ぶのは、そのためなのだ。会社が忠誠や志の対象であるためには、社員にとって会社は、利潤追求の機械と見えてはならないし、金銭によるあからさまな「所有」の対象と見えてはならないのである。社員にとって、会社が高い理念や理想の対象でなければ、自己犠牲などできないからだ。

もちろん、それは社員の側からみた共同幻想であるともいえるだろう。しかし、社員がそういう幻想を持てない会社は、結局、よい仕事はできない。そして利益も上げられず、その存続自体が危うくなってしまう。会社が高い利益を上げるためにも、社員が自分個人の利益を度外視して、自己犠牲的に仕事に打ち込める「幻想」を作ることが必要になる。

さらにいえば、その幻想は決して根拠のない幻想ではない。会社が売る商品やサービスに、高い社会的、公共的な価値があるからこそ、その商品・サービスが売れ、会社が結果的に利益を得る。会社の存在に金銭を超えた公共的価値があることは、利益が上がるための前提条件であり、社員はそれを仕事に献身する動機にしていたわけだ。

その一方で、会社が利益追求の機械でもあるという一面も、市場における現実である。今回のライブドアとフジテレビの攻防戦は、その一面―社員が決して見たくない一面―を、まざまざと白日のもとにさらしてしまった。

会社は利益を上げなければ存続できない。利益を大きくすることは、会社の株主や経営陣の目標としては妥当な目標ではある。しかし、社員が利益至上主義で行動するようになれば、会社が必要とする自己犠牲を社員におこなわせることができなくなる。そうなると、会社の業務に支障が起き、最終的には会社は存続できなくなる。つまり、社員にとっては、会社は金銭的利益を超えた存在でなければならない。

このように、会社という存在の持つ両義的な性質―利益を追求しなければならないし、しかも、利益を超えた存在理由を持たなければならない―が、終わりのない論争を引き起こしてしまうのである。

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2005年6月号『論座』に掲載

2005年5月27日掲載

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