国際化進むも、覇権通貨遠く 人民元の未来

伊藤 宏之
客員研究員

米国で新型コロナウイルス感染拡大を受け国家非常事態が宣言された3月13日の翌週、米ダウ工業株30種平均は1週間で約17%下落し、経済危機が米国から世界に広がった。一方でドルは主要貿易相手国に対し4.1%上昇した。つまり経済危機の震源地で後に世界最大の感染地になる国の通貨が大幅に上昇したのだ。

投資リスクが世界的に高まると、一番信頼性が高く利便性のあるドルが買われる。同じく米国発だった2008年の世界金融危機の時も同様だった。今回のコロナ危機で、ドルは世界で最も重要な基軸通貨であることが再確認された。

さらに米国と中国という2つの超大国が米ソ冷戦のように覇権を争っているという地政学的現実もコロナ禍の中で明らかになった。だが世界第2位の経済大国でも、中国の通貨である人民元はドルのような信頼性も利便性も持ち合わせていない。中国政府は10年代から元の国際化を積極的に進め、ドルやユーロに並ぶ国際通貨にすることを目指してきたが、望むような結果には至っていない。

主要通貨の使用や保有の度合いは経済活動や金融分野により異なる。マクロ経済や貿易の根本に関わる中央銀行保有の外貨準備における通貨シェアをみると、ドルは約60%、ユーロが約20%、円とポンドが約5%、元は2%程度だ(図参照)。元はアジアで貿易の決済通貨として使用されるようになってきたが、今もドルがアジアのサプライチェーン(供給網)での主要な決済通貨であり、欧州を除いたその他の地域でもドルが確固たる地位を築いている。

図:中央銀行の外貨準備における通貨シェア

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なぜ中国は人民元を国際化したいのか。経済的な理由としては、自国の通貨が国際化すると、より主体性をもって自国経済を安定化させられる。世界金融危機以降、米国の金融政策次第で国家間の資本の流れが決まり、資本の満ち引きに中国など新興国の企業や経済が左右される状態が続いている。元が貿易や金融決済により使われるようになると、中国企業も為替リスクを負うことなく海外から資金調達ができるようになるため、債務負担や業績がドルなどの主要通貨の動向に左右されにくくなる。

10年代初頭から中国政府は元の国際化を目指し積極的に金融市場の規制緩和や市場開放を進めた。その結果、16年に国際通貨基金(IMF)の特別引き出し権(SDR)の構成通貨となり、形式的にはドル、ユーロ、円、ポンドに並ぶ国際通貨となった。しかし16年に米国が金融引き締めを本格化すると、中国から資金が流出し、元の下落と株価の下落が連動する悪循環に陥った。元の国際化のため積極的に金融市場を開放したことが裏目に出て、15~16年の2年間で約7千億ドルもの資金が海外に流出した。

中国金融当局は、国有銀行・企業を使い株式や為替市場に積極的に介入し、市場開放とは逆に資本規制を強化した。元の国際化は以前ほど叫ばれなくなった。

だが米国でトランプ政権が誕生し、18年以降米中貿易摩擦が激化すると中国当局は違った形で元の国際化を推し進めるようになる。10年代には金融市場の規制緩和や市場開放などの市場原理による経済的利益を強調しながら元の国際化を推進した。これに対し、米中対立が激化し両国が相互依存を弱めようとする、すなわちデカップリング(分断)が指摘されるようになると、政治的・地政学的利益を追求する一環で元の国際化が進められるようになった。デカップリングのためにはドル依存から脱却し、元が確固たる国際通貨としての地位を確立することが必要であるというのだ。

元の国際化を一気に進めるかもしれない政策の一つがデジタル人民元構想だ。中国政府は硬貨・紙幣をデジタル通貨にし、すべて電子決済で済ませるシステムを構築しようとしている。デジタル通貨の最大の強みは取引当事者が銀行を介さずに直接取引できる点だ。

海外との取引では圧倒的にドル、すなわち米銀行を介する必要があったが、デジタル通貨ではその必要がない。デジタル人民元が登場すれば、ドルに頼っていた決済のかなりの部分が人民元にとって代わる可能性がある。人民元のシェアが一気にドルに並ぶ、あるいは超えるかもしれない。

ほかにも中国にはメリットがある。デジタル通貨による取引は細部まで記録が残るため、マネーロンダリング(資金洗浄)や脱税などの摘発が容易になり、収集した情報を使って国民の経済・社会生活を統制しやすくなる。また中国が海外での軍事作戦や情報収集活動をする際にもドルに頼らないので、機密情報が国外に筒抜けにならずに済む。

さらに重要な点として、デジタル人民元の普及により中国政府や企業が米国の金融制裁の影響を直接受けなくなる。現在米国は「香港の自由や自治を侵害した個人や団体」のドル資産やドル建て金融取引などを制限している。新疆地区問題でも類似の制裁がとられている。米国は中国に限らず、他国に経済制裁を与える際にドル資産や口座の凍結という手段をとる。だがデジタル人民元によりドル依存がなくなれば、金融制裁もあまり効果がなくなる。米国との対立が深まるほど、より政治的・地政学的な利益という視点から元の国際化が推進され、デジタル人民元が重要な役割を担う。

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ではデジタル人民元の登場で、人民元はドル並みあるいはそれ以上の地位を築くことができるのか。

ドルの強みは、利便性が高く層の厚い金融市場が存在すること、発行国の米国が大国として信認されていること、米国および金融市場全般に高い透明性が確保されていることなどだ。ある国が経済危機に陥った際に透明性を確保しながら、米国一国の政治的・経済的利益のみにとらわれず、世界や地域経済の安定のために公共財としてのドルを提供することも覇権通貨の発行国として重要な役割だ。

最近の米国一国主義により国際協力のけん引者としての地位は揺らぐが、ドルの覇権通貨としての地位は揺るぎない。近年米国とのデカップリングにより、中国はより自国利益の追求を鮮明にし、人権問題や領土問題などで政治的自主性を強めてきた。その中で米国経済、特にドルに頼らない経済を構築するため人民元の国際化を推進している。

だが香港問題や新疆問題でも明らかになったように中国の覇権国家としての行動が国際社会とのあつれきを生んでいる。そのたびに中国が世界経済安定のために貢献できる覇権国家なのか、そしてその通貨は世界の公共財になりうるのか、世界は常に問うている。

デジタル人民元の登場で元の国際化は進むだろう。世界2位の大国にとって必然だ。だが中国がとる政治的・地政学的行動が元の国際通貨への道を阻む可能性も否定できない。世界から信認された覇権国家になるということは、自国の利益追求だけでなく、一見利他的にもみえる行動が要求される。中国が世界に貢献できれば、その通貨も必然的に信認されることになる。

2020年10月9日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2020年10月23日掲載

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