為替変動の影響

伊藤 宏之
客員研究員

日本円がドルに対して急速に、そして大きく下落している。去年(2021年)の10月頃から今年(2022年)の3月中頃まで1ドル115円で推移していた円ドル相場が、それ以降円安が進行し、一時は139円に迫り、2022年8月現在1ドル133円付近で推移している。ここまでの急激な円安と相場の激しい変動幅は今まで見ないレベルである。

従来まで、「円安は国際市場での日本製品の価格を下げるので、輸出企業の売り上げが伸びて利益を上げる。だから円安は日本経済にとっていい。その逆に円高は良くない」と議論されてきた。

しかし、今回の急激な円安局面で言われているのは、「円安は必ずしも日本経済にとっていいことではない。なぜなら、今の日本企業、特に大手企業は海外に生産基盤を持っているので、中国や他の東アジアなど海外で製品(部品や未完成品あるいは最終製品)を生産し、それを大量に日本に輸出している。よって、円安になるとこれらの海外製品の価格が上がってしまうので、企業の業績を悪化させてしまう。」という、「悪い円安論」が議論されている。さらに、最近言われているのは、円安により輸入品の価格が上がるのでインフレを引き起こす。特に日本は食料やエネルギーの大部分を海外からの輸入に頼っているので、円安はインフレを起こし、企業のみではなく個人の消費も引き下げ、経済全体が悪化してしまう、と言われている。

円安は日本経済にとって良いのか悪いのか?

つい最近まで「円高悪論」が言われていたのに、ここまで「円安悪論」が議論されると、いったいどの議論が正しいか分からなくなってしまう。いったいどれが正しいのであろうか?

結論から言うと、どれも正しい。為替変動の影響は、円安が良い、円高が悪い(もしくはその逆)、と簡単に決められるものではない。その影響は、産業によって、あるいは企業によって違うし、また、消費者なのか、労働者なのか、それとも投資家なのか、などによっても違うので、一概にどの相場が経済にとっていいかは決めることはできない。

しかし、為替変動の影響が議論される際に、1つ、どういうわけかメディアで多く語られないものがある。それは、為替レート変動の「バランスシート効果」(正式には「評価効果」)と言われるものである。為替レート変動が、日本経済全体が所有する資産や負債、つまり日本経済のバランスシート全体にいったいどのような影響を与えるか、という問題についてはあまり語られることがない。

ある国のバランスシートというものは、その国に属する国民の「対外資産」、「対外負債」をまとめたものである。例えば、日本国民が、米国政府が発行した国債を保有しているとすると、「私はこの国債を持っているので、期日が来たら、米国政府さん、現金にして返してください」と米国政府にクレームする(当該の金融資産の所有を主張する)ことができるので、日本のバランスシートに「対外資産」として記載される。逆に、米国政府にとっては「対外負債」(国債を持ってきた人に現金に換える義務を負う)となり、米国のバランスシートの負債側に記載される。

日本のバランスシートには、日本人が所有する対外資産や対外債務が全て記載されている。日本人が持っている(Facebookを展開する)メタ・プラットフォームズの株式(資産)、トヨタがお金を調達するために発行した社債で外国人が所有しているもの(負債)、日本人が保有するオーストラリアドル(資産)、HONDAが米国の銀行から借りた融資(負債)、中国政府が所有する日本政府の国債(負債)、ソフトバンクが所有する海外企業の株式(資産)、等々。

日本は、対外負債よりも多くの対外資産を保有している。つまり、日本の対外純資産(=対外資産マイナス対外負債)は黒字で、その額は世界一である。言い方を変えると、日本国全体として、海外に対して貸した額が、借りた額よりも多いということになり、その額は日本のGDPの約75%、金額にすると約411兆円になり、1991年から31年連続で「世界最大の純資産国」の地位を維持しているのである。ちなみに米国は世界最大の純対外負債を所有している、つまり、世界一の借金をしているのである。その負債額は、米国のGDPの約7-8割、17-20兆ドル(2,261-2,660兆円)にもなる。

日本は対外資産の多くを(円以外の)海外通貨建てで保有している。負債側は、米ドルやユーロなどの海外通貨建てのものもあるが、その額は比較的少ない。

世界最大の対外純資産国・日本が円安を経験するとどうなる?

このようなバランスシートを持つ国日本が自国通貨の減価を経験するとどうなるか。

この問題は、日本でFX投資をしている典型的な投資家(海外メディアでよく言われる、“ミセス・ワタナベ”)の視点で考えると分かりやすい。円が安くなるということは、海外通貨、特にドルが強くなることを意味する。ということは、仮にミセス・ワタナベが海外通貨建ての資産をたくさん持っていて、ドルが強くなる(円が安くなると)、持っている資産を円に替えた時の額が増える。さらに外国通貨建ての負債をほとんど抱えていないとすると、円安になることでミセス・ワタナベはFX投資で成功するということである。

これを日本全体で考えると、円安になることで、ミセス・ワタナベのような個人投資家や、多額の海外投資をする銀行や保険会社などの金融機関はかなり儲けることになる。

図1は、対外純資産の増減率(オレンジバー)と対ドル円レート変動率(青線)を表しており、大まかに、円の価値が下降した年に対外純資産が増加していることが多い。(注:そもそも対外純資産は経常収支、(株や債券などの)資産価格の変動、そして為替変動による変動に影響されるので、必ずしも為替変動だけによって対外純資産が変動するわけではない。図1の対外純資産の増減率と対ドル円レート変動率の相関係数は約34%である。)

図1
対外純資産増減率と対ドル円レート変動率

為替変動によるバランスシート効果の私たちの生活に対する影響は?

さらに、その為替変動は他のかたちでも私たちの生活に影響する。

日本では国民年金や厚生年金で集まったお金を日本の債券(例えば国債)や株式、そして海外の債券(例えば米国国債)や株式に投資している。日本では年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)という団体が年金積立の運用を行っている。

最近まで長い間、年金積立の運用において、リスクが高いという理由で海外の金融資産に投資する割合が抑えられてきたが、コロンビア大学の伊藤隆敏先生をはじめとする方々のおかげで、年金投資のリターン(利回り)を上げるためには多少リスクが高くても海外の金融商品にも投資すべきだ、ということで、年金投資のポートフォリオにおける外国債券や株式の比率が引き上げられた。2001年度の年金基金のポートフォリオでは、国内債券が68%、国内株式18%、海外債券3%、外国株式10%という構成であったのが、2021年度では、ポートフォリオに占める4つの資産タイプの比率はそれぞれ25%となっている。

この年金基金の運用方法の改革によって、為替変動がより年金投資に影響を与えるようになった。つまり、今回の円安により年金の利回りもよりプラスの影響を受けるようになったということである。実際に、今回の円安により金融機関の運用益は上昇し、年金基金の運用益も上がり、日本の対外資産額も増えている。

日本には「悪い円安」が来ているとか、現在の水準の円安は日本経済にとって最悪の事態であると主張する人がいる。また、「1ドル1,000円の時代が来る」などと主張する人さえいる。しかし、これらの人たちは、円安が日本の対外資産に及ぼすプラスの評価効果をまったく考慮していない。面白いことに、なぜかメディアも為替変動が日本の対外資産に及ぼす影響についてほとんど取り上げないが、それはそのメカニズムが複雑すぎると考えられているためであろう。

少なくとも、円安によって(あるいは円高によって)日本経済が破滅する、みたいな扇動的な議論にあまり左右されないように心がけたいものである。為替変動のリスクと効用を的確にとらえることは大事であり、その意味では為替変動のバランスシート(評価)効果も論点の1つであるべきであると思う。

2022年8月19日掲載

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