安倍首相とトランプ大統領は2018年9月26日の首脳会談で「日米物品貿易協定(TAG)」の締結に向けた交渉開始で合意した。19年1月から本格的な交渉が始まる予定だ。6月に大阪市で開催される20カ国・地域(G20)首脳会議でトランプ大統領の来日が予定されており、それまでに実務交渉の山場があると予想される。本稿では、交渉開始に至った経緯と今後の見通しを述べたい。
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トランプ大統領の通商政策の根本には「貿易黒字は善、赤字は悪」「多国間交渉よりも2国間交渉の方が有利なディール(取引)に持ち込める」という考えがある。そして貿易額が大きく、かつ多額の貿易赤字を計上している国々と次々に2国間通商交渉を展開している(図参照)。
大統領は、年約700億ドル(7兆6千億円)の対日貿易赤字が不公正な貿易慣行に起因し米国の富と雇用を奪っていると考える。また大統領になってすぐに環太平洋経済連携協定(TPP)から離脱した。これにはオバマ前大統領のレガシー(遺産)を潰すという目的に加えて通商交渉の軸足を2国間にシフトさせる思惑があった。
トランプ大統領は、安全保障上の脅威がある場合に貿易相手国・地域への制裁を認める通商拡大法232条に基づき、18年3月23日に日本を含む多くの国・地域を対象に、鉄鋼とアルミニウムの輸入にそれぞれ25%と10%の追加関税を課した。この背後には、中国の国有企業や不透明な巨額の補助金によって生じた鉄鋼やアルミの過剰供給問題への対処、ラストベルト(さびた工業地帯)での大統領への支持拡大、そして貿易赤字国との2国間通商交渉の下地作りという意図があった。
交渉の下地作りでは、日本とは4月の首脳会談で新たな貿易協議(FFR)を設置することに合意した。ただ、韓国やブラジルなどを除けば2国間交渉はうまく進まなかったため、トランプ大統領は5月23日に自動車・同部品についても232条に基づく調査に着手するよう商務省に指示し、最大25%の追加関税を導入する可能性を示唆した。
もし自動車・同部品に追加関税を米国が課すと、日本への影響は計り知れない。17年のデータ(本紙18年9月16日付)によると、日本からは174万台(4兆4千億円)の自動車が米国に輸出されている。また日系メーカーはカナダから77万台、メキシコから69万台を米国に輸出している。自動車部品は、9400億円が日本から米国に輸出されている。自動車と同部品で約500億ドル、つまり対米輸出額の40%弱になる。
8月9~10日に第1回FFRが開催されたが、TPPへの復帰を求める日本に対し、米国は2国間の自由貿易協定(FTA)にこだわる姿勢を見せた。結局、日本政府は自動車・同部品の強引な関税引き上げを懸念してTAGの交渉開始に合意し、追加関税は一時棚上げとなった。なお共同声明には、日本の農林水産物の市場開放が過去の日本の経済連携協定(EPA)の水準を上回らないこと、自動車の市場アクセスでは米自動車産業の生産と雇用を増やすことが明記された。
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米通商代表部(USTR)は12月21日、日本との通商交渉に向けて22項目の交渉目的を発表した。USTRは今回の協定を単に「United States―Japan Trade Agreement(USJTA)」と呼んでおり、日本政府が強調する「物品」という文言が入ってない。そして要求22項目は、TPPの21交渉分野ほとんど全てをカバーしている。つまりトランプ政権は、日本との通商交渉を通常のFTA交渉と捉え、TPPでの合意よりもより有利なディールをもくろんでいるといえる。
要求項目に「為替」が入っている点にも注意が必要だ。トランプ大統領は、日本は通貨安に誘導することで輸出を促進していると批判してきた。米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)を念頭に、通貨安誘導を封じる為替条項を日本にも求めると予想される。モノの貿易に関する交渉に引き続き他分野の交渉も行われることになるだろう。
自動車分野の交渉に関しては、他国とのFTA再交渉が参考になる。米韓FTA再交渉では、(1)韓国製ピックアップトラックへの25%の関税撤廃時期を20年延長して41年1月1日とする(2)韓国は米国の安全基準を満たした車両を各メーカー年5万台(再交渉前は2万5千台)まで韓国の安全基準を満たしたものと見なす(3)自動車部品も米国の安全基準を満たせば韓国の基準を満たしたと見なす(4)自動車環境基準を韓国が設定する際には米国の基準も考慮する――などが合意事項に含まれた。
USMCAでは、232条に基づく自動車・同部品への追加関税が発動された場合、メキシコとカナダともライトトラックと年260万台までの乗用車の関税賦課は対象外とし、自動車部品は、メキシコからの輸入は年1080億ドルまで、カナダは324億ドルまでを対象外とした。現時点では、両国の米国への輸出量はゼロ関税枠の範囲内に収まっているが、近い将来この枠を超えると予想されている。
以上から、日米の交渉においても、日本の安全基準や環境基準が実質的に骨抜きにされる可能性や実質的な数量規制をのまされる可能性を否定できない。数量規制が導入されると、メーカーへの輸出割り当ての問題も生じる。
ただ、数量規制が日本側の輸出規制という形をとるのであれば、日本の自動車メーカーも利益を得る可能性がある。その利益は、日本車の供給が減ることで価格に上昇圧力が働くこと、輸出車種を利幅の大きな乗用車にシフトさせることから生じる。なお、米国の安全基準などを受け入れたとしても米車の輸入が大きく増えるとは考えにくい。追加的な輸入増加措置や米国への直接投資増大を要求してくるかもしれない。
同時並行的に行われる他の通商交渉も日米交渉に影響を与えるだろう。18年7月25日にトランプ大統領と欧州連合(EU)のユンケル欧州委員長が貿易協定交渉を始めることに合意し、今後本格的に交渉が始まる。日米交渉の行方は、米EU交渉にも左右されることになるだろう。また日欧EPAが19年2月1日に発効する。世界貿易機関(WTO)のルールから逸脱した理不尽な要求には、日本はEUと連携しながら抗するべきだ。
さらにトランプ政権は中国政府と、2千億ドル分の中国製品への制裁関税の引き上げ猶予と引き換えに、中国による強制的な技術移転や知的財産の侵害など貿易や構造改革について協議を進めている。期限は3月1日で、この交渉も日米交渉に影響を与えうる。米中交渉が難航すれば日米交渉は先延ばしになる可能性、逆にすんなり決着すれば圧力が強まる可能性がある。
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トランプ大統領の2国間交渉における常とう手段は、保護主義的な政策の実施やその脅しによって交渉を有利に進め、相手から譲歩を導き出すといったものだ。残念ながら、それが大統領の思惑どおり機能してしまっている。米国が圧倒的な政治・経済力を持つため、相手国は譲歩せざるを得ない状況に追い込まれてしまうのだ。毅然と対抗していた中国でさえ、一部譲歩し始めた。日本の交渉も厳しいものになると予想されるが、WTOのルールと整合的な合意を実現してほしい。
2019年1月14日 日本経済新聞「経済教室」に掲載