TPP参加 日本の選択
ルール形成への関与急げ

石川 城太
ファカルティフェロー

2010年10月に菅直人首相(当時)が環太平洋経済連携協定(TPP)交渉への参加検討を表明し、昨年11月に野田佳彦首相が交渉参加に向け関係国との協議に入ると表明した。しかしその後、正式な参加表明をしないまま時が過ぎている。この間にメキシコとカナダの交渉参加が実質的に認められた。次回の交渉会議が9月に開かれることを考えれば、今が参加表明をする好機だが、民主党内のゴタゴタもあってこのままの状態が続きそうな気配である。

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昨年11月の時事通信の世論調査によれば、「日本も交渉に参加すべきだ」が52.7%、「参加すべきでない」が28.8%。今年7月の調査では「参加すべきだ」が57.6%、「参加すべきでない」が21.7%たった。ところが、昨年11月の時点では国会議員の半数近くがTPPに反対の立場をとっており、現在も根強い反対論がある。反対グループは、大きく次の5つに分類されるだろう。既得権益の保護派(農業関係者など)、反グローバル派、反米派、反野田派、その他(食の安全を危惧するグループなど)である。

交渉参加に関して、世論調査の結果と国会議員の立場に大きな隔たりがあるのはなぜか。特に、TPP反対の中心は農業関係者だが、農業部門が縮小しているのに、その政治力が衰えないのはなぜか。政治学者のマンサー・オルソン氏が唱えた「集合行為論」によりうまく説明できる。

仮に、TPPで利益を得る人が1億人いて、その利益の合計が10兆円、一方で損失を被る人が200万人いて、その損失の合計が8兆円としよう。この場合、経済全体としては差し引き2兆円の利益になるのでTPPを進めた方がよいはずだが、実際にはなかなか実現しない。それは得するグループの利益が1人あたり10万円なのに対し、損するグループの損失は1人あたり400万円にもなるからだ。

TPP参加で得をするグループの多くは、世論調査で「交渉に参加すべきだ」と答えても、例えば霞が関まで行って「TPP賛成!」と叫ぶとは考えにくい。世論調査への回答には費用がかからないが、霞が関まで行くと様々な費用が生じるからだ。しかし損をするグループは違う。交通費をかけて霞が関まで行き、丸1日仕事をせずに「TPP反対!」と叫ぶ誘因がある。最終的に主張が通れば、400万円もの損失を避けられる。

ポイントは、経済全体でみたネットの利益はあっても恩恵は薄く広くしか行き渡らないのに対して、損失は少数の人に集中する点にある。損失を被るグループは、1人あたりの損失額が大きいので、国会議員への陳情や献金といったロビー活動を積極的にすることで、大きな政治力を持つ。仮に損失額が変わらず、損をする人数が減れば、1人あたりの損失額はさらに大きくなる。つまり損をする人が少なくなるほど、ロビー活動の誘因は一層大きくなり得る。

また、グループが小さいほど投票行動を組織しやすく、必ず自分たちの主張を支持する候補に投票する。この場合、国会議員も損失を被るグループ側に立つことで、比較的容易に献金や票を集められる。

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政府は民意を十分に反映するような判断をすべきだ。しかし民意は正しく形成されているのか。国民が判断を下す際に、十分かつ正しい情報に基づいているのか。国民にとって、TPPが自分たちに及ぼす影響を見極めるのは難しい。菅前首相は、TPPへの参加を「平成の開国」と銘打った。国民の中には、明治維新のような大変革を起こすと思った人もいただろう。

しかしTPPはあくまでも自由貿易協定(FTA)の1つであり、日本は既に13のFTAを結んでいる(表参照)。新たな政策を議論するときには影響を具体的に国民に示すべきだが、「平成の開国」という仰々しい言葉だけが独り歩きしてしまった感がある。さらに政府はTPPの影響について、農林水産省、経済産業省、内閣府がばらばらに試算した3つの全く異なる数字を提示し、結果的に国民を混乱させた。

表:日本のFTA・EPAの現状
表:日本のFTA・EPAの現状
(出所)外務省

農水省と経産省の試算はそれぞれ農業部門と製造業部門への影響のみをみているのに対し、内閣府の試算は経済全体への影響をみている。TPP反対派が最も頼りにしているのが、農水省の試算であろう。それによると、日本の農業生産は4兆1000億円減少、自給率は40%から14%に低下、国内総生産(GDP)は7兆9000億円減少する。

この数字だけを聞くと、影響の大きさに不安を覚える人も多いだろう。ところがこれはTPPの影響試算といいながら、全世界を対象に19品目の関税を撤廃した場合の試算である。また、関税を即時撤廃することを前提としているが、通常は関税の撤廃には協定発効から10年の猶予が与えられる。従って、明らかに損失が過大評価されている。

一方、経産省の試算では、20年にGDPが10兆5000億円、雇用が81万2000人それぞれ減少するとしている。ただ、これも日本が現状維持(すなわちTPP不参加)で、韓国が対米、対欧州連合(EU)に加え、対中FTAを締結した場合に自動車・電気電子・機械産業の基幹3業種の輸出に及ぼす影響をもとにしている。

そして内閣府の試算では、TPP参加と不参加の状況を比較している。参加時のGDP増加分と不参加時の減少分の差は、10年で累積3兆~4兆円としている。年換算すれば数千億円程度で、GDPの0.1%にも満たない。しかし、この試算については、過小評価されているとの声もある。例えば、TPPによる投資の自由化やヒトの移動といった側面が考慮されていないからだ。いずれにせよ、政府はTPP参加の是非を判断するのに有用でわかりやすい情報を十分に提供すべきだ。

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世界貿易機関(WTO)の多角的通商交渉(ドーハ・ラウンド)が暗礁に乗り上げ、各国がFTA締結に走っているのが現状だ。今後アジア太平洋地域での貿易自由化を進めようとすれば、TPPか東南アジア諸国連合(ASEAN)+3(あるいは+6)の枠組みで進めていかざるを得ないだろう。特に、TPPはアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)の形成を最終目標にしている。何もせずに傍観していれば、アジア太平洋経済圏における主導権は取れなくなる。従って、もっと戦略的観点からTPP交渉への参加を早急に検討すべきだ。

まず、TPPのルールづくりに関与するという観点が必要だ。TPPは他のFTAよりも高度な自由化を目指しており、そのルール形成が今後のアジア太平洋地域の通商秩序を大きく左右する。従って、交渉時点でのルール形成への積極的な関与が日本にとって極めて重要である。

さらに、早期の参加により、他国に対する交渉力の向上も期待できる。日本がTPP交渉参加に向け関係国との協議に入ると表明した途端、韓国と中国の態度が変わったといわれる。インドの影響を排除するためにASEAN+3を推進していた中国が、日本が主張するASEAN+6を考えてもよいといい始めた。

ざっくりいうと、TPPでは米国が、ASEAN+αでは中国がそれぞれ主導権を握っている。米中どちらにとっても、最終的には経済大国の日本を取り込むことが欠かせない。日本がTPPとASEAN+αという2つの枠組みを両にらみしながら、FTAに真剣に取り組む姿勢を強くアピールできれば、交渉過程で優位な立場に立てる。ロシアのWTO加盟でドーハ・ラウンドの決着が一層不透明となる中で、日本はもっと戦略的な観点から通商政策を推し進める必要があるだろう。

2012年8月28日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2012年9月12日掲載

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