点検・骨太2026 無形資産投資で賃上げを

細野 薫
ファカルティフェロー

「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)2026」が公表された。主要先進国は大規模な財政支出を伴う産業政策を実施している。この潮流を踏まえ、日本でも政府が主導して戦略分野への投資を進めるべきだ、というのがその基本的な考え方である。

本稿では日本の投資の現状を概観する。その上で骨太の方針に示された主な政策が、実質賃金の持続的な上昇につながりうるかという点を評価してみたい。

上図は、国内総生産(GDP)比でみた民間企業の設備投資額と無形資産への投資を示している。

図によると、設備投資額のGDP比は2010年以降、上昇傾向にある。これは主にソフトウエア投資の増加を反映している。一方、研究開発やソフトウエア以外の無形資産投資は低下傾向が続いている。

下図が示すように、日本の無形資産投資のGDP比は、米独と比べても低い。特に人的資本への投資や組織改編などの低さが際立っている。

図:設備投資と無形資産投資/無形資産投資のGDP比

こうした中、政府は人工知能(AI)・半導体をはじめとする17の戦略分野を選定し、40年度までの累計で370兆円を超える官民投資を計画している。

この成長戦略は実質賃金の持続的な上昇につながるだろうか。実質賃金の増加を、労働者1人当たりの付加価値(労働生産性)の増加と、労働生産性に比べた賃金の上昇という2つの観点から検討する。

民間企業によるAIモデルの開発やデジタル化への投資、さらには新たな技術に対応できる人的資本の構築は無形資産を構成する重要な要素である。こうした無形資産投資が生産性の向上に寄与することは多くの研究が示している。

また最近の山本庸平・一橋大教授と筆者の研究は、ソフトウエア投資や従業員訓練などの無形資産投資が労働者の賃金交渉力を強め、生産性の上昇を上回る賃上げにつながることを示している。

例えばAIの導入に必要な人員が不足している現状でスキルを持つ人材を採用するとしよう。そうした人材には生産性を上回る賃金を提示しなければならないからなのかもしれない。

このようにAIなどの無形資産やそれを補完するデータセンターなどへの投資を促す政策は、実質賃金を持続的に増加させる効果が期待できる。しかもある企業の投資は別の企業への波及効果も大きいため、政府が支援する経済的合理性もある。

他方、政府が選定した戦略分野はAIに限らず、幅広い。広範な分野に及ぶ投資への支援は、実質賃金に対しプラスとマイナス双方の影響を与え得る。

プラス面としてはまず、先端技術を体化した設備の導入による生産性の上昇が挙げられる。

山ノ内健太・香川大准教授、滝澤美帆・学習院大教授と筆者が進めている研究では、発展途上国向けの対外直接投資は国内の労働市場で企業側の賃金交渉力を高め、賃上げを抑制する傾向を明らかにしている。

もし政府の支援を通じて対外直接投資の一部が国内に回帰すれば、今度は労働者の賃金交渉力が高まることになる。そうなれば生産性の上昇に見合う、またはそれを上回る賃上げが起きる可能性がある。

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マイナス面やリスクは大きく3つある。

第一に、戦略分野にはイノベーションを促す成長投資のみならず、経済安全保障などの危機管理投資も含まれる。こうした投資は長期的に見れば経済のリスク耐性を高め、持続的な成長に貢献するだろう。しかし短期的にはコスト増による物価上昇要因になりうる。

例えば経済安保のために特定の財・技術の国内生産を優先するとどうなるか。経済学的には国際的な比較優位に基づく分業の利益を放棄し、高コストを負担することになる。長期の危機管理とのトレードオフを慎重に見定める必要がある。

第二に、補助金や税制優遇を長期間続けると市場競争がゆがむ。これにより非効率な企業が存続し、革新的な企業の参入や成長を抑えてしまう。そもそも日本は企業の新陳代謝が乏しい。政府が特定の企業を選定して補助を続けるのではなく、競争を活性化させる制度設計が求められる。

第三に、最も深刻なリスクは巨額の財政負担である。実際の財政支出の規模は不確かだが、内閣府の試算によると、成長戦略実現のために27年度以降、実質ベースで年10兆円の財政支出を想定している。

6月末に骨太の方針の原案が報道されて以来、金融市場では財政への懸念から長期国債の金利が上昇し、円安も進んだ。長期金利の上昇は投資の抑制要因となるし、円安は物価上昇を通じて実質賃金の押し下げ要因として働く。

7月末の日米両政府による為替介入がもたらす円高効果は一時的だろう。政策金利の引き上げによる円高効果も、人々のインフレ期待の低下を伴わない限り、持続しない。食料品に課す消費税率の27年度からの引き下げに必要な財源も、現状では明らかではない。

高市早苗政権は骨太の方針で基礎的財政収支を単年度で黒字化する目標を取り下げた。一方で政権が重視する政府債務のGDP比の安定的な引き下げは、経済成長に伴う税収の自然増という不確かな財源に依存するように見える。

こうした状況で成長戦略に多額の財政支出を行うことは、金融市場の不確実性を高め、民間投資を阻害しかねない。これらを避けるには、財政負担の額と財源を早期に明らかにする必要がある。

結局、財政余力が小さい日本では、補助金や税制優遇によって無形資産投資を含む投資を伸ばし、実質賃金を上昇させることは容易ではない。リスクや副作用を十分考慮した上で、対象を絞り込み、効果測定に基づき制度設計を見直していくことが重要である。

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最後に最低賃金の引き上げについて触れておこう。骨太の方針では、遅くとも2030年代前半のできる限り早期に全国平均1500円を達成することが示されている。25年度の全国平均(1121円)から年平均3.3〜6%の率で最低賃金を上げる計画だ。

この増加率は、おおむね過去5年間(2021〜25年平均=4.4%)と同程度であり、消費者物価を超える伸びとなる。

奥平寛子・同志社大准教授らと筆者は、デフレ色が残っていた02〜16年の製造業のデータを用い、最低賃金の影響を分析した。

この結果、物価や労働市場の需給に応じた額を上回る最低賃金の上昇は雇用や企業利益を減少させることが明らかになった。労働者側も、税や社会保障での「年収の壁」を意識して労働時間を減らす可能性があることもわかった。

現在のインフレ下では、労働コストの上昇が価格に転嫁され、実質賃金を減らす懸念もある。税制などの見直しを進めて働き控えを防ぎ、労働供給を増やすことで家計所得の増加につなげるサイクルが重要だ。

2026年8月26日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2026年9月10日掲載

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