金利低下・円安経路は不十分
物価を2%に高める力強さはない

細野 薫
ファカルティフェロー

日銀が量的・質的金融緩和(QQE)を導入してから3年がたった。この間、物価や消費、生産、設備投資など実体経済への波及効果は必ずしも満足いくものではない。2013年4月のQQE導入時に日銀は、「長めの金利や(株や住宅・不動産など)資産価格などを通じた波及ルートに加え、市場や経済主体の期待を抜本的に転換させる効果が期待できる」とうたっていた。

だが、実体経済を向上させる効果は、原油安の効果を考慮したとしても、限定的であったと言わざるを得ない。日銀が想定していたQQEの波及経路は、どこで根詰まりが起きたのか。

一般的に、金融緩和が実体経済に波及する経路は3つある。1つは、実質金利の低下と実質為替レートの減価(日本の場合は円安)を通じて、設備投資、住宅投資、純輸出を増加させる経路である。残る2つの経路は、資産価格の上昇が銀行などによる与信を増やすもので、まとめて「信用経路」と呼ばれる。

そのうちの1つは、資産価格の上昇によって、借り手である企業や家計が持つ資産価値が上昇し、土地などの担保価値も上昇するので、資金を借りやすくなる効果である。

もう1つは、貸し手である銀行が持つ金融資産の価値が上昇し、自己資本や流動資産が増えて貸し出しに積極的になる効果である。

金利の感応度低い

では、日銀のQQEはこれら3つの経路のうち、どの経路はうまく働き、どの経路は働かなかったのか。

まず、教科書的な最初の経路は、すでに短期金利がゼロ%となり、引き下げ余地が乏しい状況(流動性の罠)では、単にマネタリーベース(現金通貨と民間金融機関が保有する中央銀行預け金の合計)を増やすだけでは、効果が乏しい。このため、日銀はQQEでいくつかの工夫をしてこの経路を活用しようとした。

まず、QQEを「2%の『物価暗転の目標』の実現を目指し、これを安定的に持続するために必要な時点まで継続する」という、将来の政策へのコミットメント(公約)を強化。これによって将来にわたってゼロ金利が継続されるとの期待を強め、長期名目金利を引き下げる。

次に、大量の国債やその他のリスク資産を購入し、コミットメントの信頼生を高める。国債や社債などの市場で大きな影響を持った日銀が、それらを短期間に大量に売却し、引き締めに転じることは当分ないだろうとの予測を醸成するのである。

それとともに、金融機関のポートフォリオ・リバランス効果を通じて、長期国債や外国通貨への需要を高め、名目長期金利と名目為替レートを下落させる。さらに、こうした効果によって景気が回復し、しかもその時点でも低金利が続くとの予想を醸成することで、インフレ期待を高め、実質長期金利をさらに引き下げる。これらのもくろみは、インフレ期待の高まりを除けば、比較的うまくいったと言えるだろう。

ところが、実質金利の低下や円安(実質為替レートの減価)は、インフレ期待を劇的に高めるほどの総需要の刺激には結びつかなかった。これは、8%への消費税増税や原油安という一時的要因だけでなく、日本経済の構造的な変化によるものと思われる。

具体的には、日本企業は、以前の円高期による海外直接投資の増加によって海外現地生産が増え、輸出が増えにくくなっている。さらに、企業の投資の中身が変わってきていることも大きい。現代の企業にとって成長の源泉は、設備投資だけでなく、研究開発やソフトウェア、ブランド(のれん)などの無形資産投資も重要である。また、こうした投資に備えるためにも、企業は内部資金を蓄積している。このため、設備投資の金利感応度は低くなっている。

次に、2つある信用経路はどうか。QQEは、長期金利の引き下げを通じて、株式投資や住宅・不動産投資の資金コストを低下させ、株価や地価の引き上げに寄与した。

したがって、定性的には、これら2つの経路は住宅投資や設備投資などにプラスの効果をもたらしたと言える。しかし、その定量的な大きさは、金融システムの特徴や貸し出しの種類に依存するため、注意が必要である。

銀行経路大きい日本

日本では、例えば、筆者と一橋大学の宮川大介准教授が14年に発表した共同研究で、企業向け融資に関して、銀行のバランスシート経路に着目した分析を行い、この経路が経済的に意味のある大きさであることを示している。米国と比べると、金融システムにおける銀行部門の存在感が大きく、住宅金融などの仕組みも違う日本では、銀行のバランスシート経路が定量的には比較的大きく、借り手のバランスシート経路は中小企業などに限られると推測される。

また、QQE導入の発表後7営業日の株価の推移をみると、銀行業株式指数の上昇率が日経平均の上昇率を2%ポイント以上上回っており、銀行のバランスシート経路が機能する余地は十分あった。しかし、設備投資のための資金需要が強くない状況下では、貸し出しへの効果は不動産業、リース、医療・福祉など一部の業種向けに限られた。

まとめると、QQEは主に実質金利・実質為替レート効果と銀行のバランスシート経路によって、住宅投資や不動産投資などを一定程度下支え、あるいは増やす効果があったものの、日本経済の構造変化もあり、「市場や経済主体の期待を抜本的に転換させる」ほどの総需要や物価への効果はなかったということだろう。

こうしたなか、日銀は1月末、年初来の中国経済の先行き不安や世界的な金融市場の動揺に対処するため、マイナス金利付きQQEを公表した。黒田東彦総裁が日銀当座預金の一部に適用する金利のマイナス幅を今後さらに拡大する可能性に言及したこともあり、これ以降、長期金利は大幅に下がっている。したがって、実質金利の経路は今後強まり、住宅投資などへのプラスの効果が期待できるだろう。

その一方で、長期金利の低下は、債券運用収益の減収、貸し出し利ざやの縮小などにより、銀行の収益を徐々に圧迫する。実際、マイナス金利付きQQEが公表された後7営業日の株価の推移をみると、日経平均に比べて銀行業株価指数は10%ポイント以上下回っている。QQEによって、銀行の流動性は十分確保されているものの、マイナス金利による収益悪化は、銀行のバランスシート経路を通じて長期的には貸し出しに悪影響をもたらすことが懸念される。特に、銀行のバランスシート経路は、中小の金融機関や、それらと取引をしている中小企業において、より強く影響が出ることが知られており、中小企業向け貸し出しの動向には今後注意が必要だろう。

『週刊エコノミスト』2016年4月19日号(毎日新聞社)に掲載

2016年5月10日掲載

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