執筆者 | 山下 一仁 (上席研究員) |
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発行日/NO. | 2019年6月 19-J-034 |
研究プロジェクト | 日本の農政思想史と農業の構造改革 |
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概要
最近我が国では、世界の潮流は大規模農業ではなくて小農尊重であり、我が国の小さい兼業農家などを保護すべきだという主張が行われるようになった。しかし、この主張の元となっている国連宣言は“貧しく”“差別され”ているpeasantを対象とするものであって、上記の主張はこれを日本農業の現状を擁護するために換骨奪胎したものである。戦前の“小農主義”は、貧しい小農のためのものではなく、それを圧迫していた地主階級の利益を擁護する主張だった。これに対して、耕作者の立場に立つ柳田國男は、農家戸数を減少させて規模拡大を図らない限り、貧困からの脱出は困難であると主張した。それが実現するまでの間、今いる小農の所得を向上させようとして主張したのが、協同組合(当時は産業組合という名称)の活用だった。小農でも、協同して米などの農産物を保管して価格の安い収穫時ではなく価格が有利な時に販売したり、協同して肥料などの農業資材を安く購入したり、剰余資金を融通しあったりすれば、大農の利益を得られるようになるだろうと考えたのである。
しかし、現実に存在する産業組合は、地主や上層農のものであり、小農は産業組合に加入することさえ許されなかった。それが、農林省が主導した、大恐慌後の農山漁村経済更生運動によって、全ての町村に一つ、全ての農家を組合員にし、農産物の販売、資材の購入、農業金融など農業・農村の全ての事業を対象とする産業組合に転換され、また千石興太郎によって有楽町に巨大ビルを建設するなど産業組合の隆盛をみることになった。これが戦時中の統制団体への変換を経て、現在のJA農協となっている。
農家組合員の自主性ではなく、農林省や組合のリーダーによる上からの指導によって成立・発展した組織は、柳田國男が強調した自助の精神ではなく政府の補助に依存する組織となったばかりか、農協及びその職員も本体組合活動の主体であるべき組合員を組合の利益を生むための客体として捉えるようになった。今日政府によって農協改革が唱えられるようになったのも必然である。柳田國男も農山漁村経済更生運動も、協同組合を貧農の解消のために活用しようとするものだった。しかし、農家所得は1965年以降勤労者世帯を上回って推移するようになり、農業・農村から貧困は消滅した。協同組合の目的は達成された。同時にJAも兼業農家の兼業所得などを預金として活用するなどの脱農化によって発展した。理念としての協同組合と実際の協同組合が大きくかい離しているのも、柳田國男の時代と同じである。