執筆者 | 山下 一仁 (上席研究員) |
---|---|
研究プロジェクト | 日本の農政思想史と農業の構造改革 |
ダウンロード/関連リンク |
このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
産業フロンティアプログラム(第四期:2016〜2019年度)
「日本の農政思想史と農業の構造改革」プロジェクト
最近我が国では、世界の潮流は大規模農業ではなくて小農尊重であり、我が国の小さい兼業農家などを保護すべきだという主張が行われるようになった。しかし、この主張の元となっている国連宣言は“貧しく”“差別され”ているpeasantを対象とするものである。図が示しているように、1965年以降農家所得が勤労者世帯の所得を上回って推移するという現状では、日本に小農はいても、peasantはいない。
もちろん戦前の日本にpeasantはいた。貧困の原因は、零細な農業構造(小農)と地主制だった。戦前の“小農主義”は、貧しい小農のためのものではなく、それを圧迫していた地主階級の利益を擁護する主張だった。小農を小農として維持して、土地生産性を向上させようとしたのである。これに対して、耕作者の立場に立つ柳田國男は、農家戸数を減少させて規模拡大を図らない限り、貧困からの脱出は困難であると主張した。それが実現するまでの間、今いる小農の所得を向上させようとして主張したのが、協同組合(当時は産業組合という名称)の活用だった。小農でも、協同して米などの農産物を保管して価格の安い収穫時ではなく価格が有利な時に販売したり、協同して肥料などの農業資材を安く購入したり、剰余資金を融通しあったりすれば、大農の利益を得られるようになるだろうと考えたのである。
柳田國男が協同組合の活用を説いたことを、現実の協同組織の維持のために利用しようとする動きがある。しかし、柳田國男は、現実に存在する産業組合(協同組合)は、理念としての協同組合から大きくかい離しているものだと批判していた。実際の産業組合は地主や上層農のものであり、小農は産業組合に加入することさえ許されなかった。産業組合は小農救済の組織ではなかったのである。
それが農業や農家を代表するような組織になったのは、農林省が主導した、大恐慌後の農山漁村経済更生運動によって、全ての町村に一つ、全ての農家を組合員にし、農産物の販売、資材の購入、農業金融など農業・農村の全ての事業を対象とする産業組合に転換されたからである。また千石興太郎によって有楽町に巨大ビルを建設するなど産業組合の隆盛をみることになった。これが戦時中政治活動や技術指導を行っていた農会組織と合体して統制団体・農業界となったのち、米の政府への集荷のために農林省の指導の下に農協に改組され、現在のJA農協となっている。
農家組合員の自主性ではなく農林省や組合のリーダーによる上からの指導によって成立・発展した組織は、農会組織の権能を吸収し新たに政治活動も精力的に行うようになり、柳田國男が強調した自助の精神ではなく政府の補助に依存する組織となったばかりか、農協及びその職員も本体組合活動の主体であるべき組合員を組合の利益を生むための客体として捉えるようになった。今日政府によって農協改革が唱えられるようになったのも必然である。
柳田國男も農山漁村経済更生運動も、協同組合を貧農の解消のために活用しようとするものだった。しかし、農業・農村から貧困は消滅し、協同組合の目的は達成された。同時にJAも兼業農家の兼業所得などを預金として活用するなどの脱農化によって発展した。理念としての協同組合と実際の協同組合が大きくかい離しているのも、柳田國男の時代と同じである。