やさしい経済学―ミクロデータから見た社会保障

第4回 引退行動の解明

清水谷 諭
コンサルティングフェロー

「くらしと健康の調査」(JSTAR)の大きな目的の1つは引退行動の解明である。日本の平均引退年齢(実効引退年齢)は、男女とも先進国の中で最も高い部類に属する。逆に欧州では、障害年金の受給資格を大幅に緩和したため早期退職が急増し、財政悪化の要因の1つになった。そのため、日本の引退の遅さは大きな関心をよんでいる。

引退は長いプロセスとして捉えるべきで、パネルデータによる分析でないと解明しにくい。いったん引退しても再度労働市場に戻る場合もある。また配偶者がいると、引退は夫婦共同の意思決定である可能性がある。これらは海外で多くの研究が蓄積されているが、日本ではデータが乏しく解明が遅れていた。

JSTARの第1回、第2回のデータを使った東京大学の市村英彦教授との共同研究によると、引退の意思決定には、健康状態、具体的には日常生活での機能の変化や精神的健康状態(うつ状態)、さらに認知力(単語の思い出しで実際に計測)の低下が影響していた。健康状態は当然引退に影響しうるが、今回の研究で客観的で多面的な健康状態の情報がないと引退を決断させる要因となるかどうか判然としないことも明らかになった。さらに夫婦の場合、日本でも引退が配偶者の就労状態で有意に影響を受け、しかも男女では異なることや、引退後に被用者が自営に変わることはほとんどなく、いったん引退したら労働市場に戻ることが少ないこともわかった。

こうした引退プロセスの解明は、政策的な含意も大きい。人口減に直面した日本では、高齢者雇用の積極的活用が急務である。「生涯現役」という言葉もよく聞かれるが、そもそも高齢者は健康面などで制約が大きく、全員が働き続けられるわけでもない。また米ミシガン大学のウィリス教授とランド研究所のローウェダー研究員は国別データを用い、早期退職は60歳代前半の人たちの認知能力に悪影響を与え、かつその効果が大きいことを明らかにした。その原因として、職場での環境は家にいるよりも刺激が多く、早期退職を予定している人たちには新しく人的資本に投資し続ける動機づけが弱いことを挙げた。

高齢者の労働市場をうまく機能させるには、個々の健康や認知力などを踏まえた、よりきめ細かいマッチングが求められる。新卒一括採用などと異なり、高齢者は一様ではない。ミクロデータを活用しながら労働需要ときめ細かく対比させ、労働市場でのミスマッチを解消していく姿勢が必要になる。

2011年9月15日 日本経済新聞「やさしい経済学―ミクロデータから見た社会保障」に掲載

2011年11月2日掲載

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