介護保険制度の将来

清水谷 諭
コンサルティングフェロー

公的介護保険制度導入と介護費の急増

社会保障制度の改革論議が大きな山場を迎えている。政府の社会保障制度改革国民会議は、7月29日、「21世紀(2025年)日本モデル」の構築を掲げた最終報告案の「総論」を了承した。この総論では、負担のあり方を年齢別から能力別に転換することなどが盛り込まれている。8月6日をめどに最終報告を取りまとめるようだ。

この報告書では、公的介護保険制度についても、改革の方向性が盛り込まれる予定だ。公的介護保険は2000年4月に導入され、すでに10年以上が経過する間、介護費(自己負担を含む)は当初の4兆円から、2011年度には8.4兆円と倍増した。今後も、政府の推計では、2025年度には20兆円前後(GDPの3-4%)まで膨れ上がることが見込まれている。

こうした介護費の増大の背景には、高齢化の一層の進展によって、介護需要が増大したことがあげられる。それだけでなく、核家族化の進展、単身世帯の増加を背景に、家族介護の供給が低下しているという世帯構造の変化も見逃せない。

これまでの政策論議の前提

しかし、これまでの介護保険制度の改革論議の多くは、暗黙の裡に、次の3つの仮定に立脚してきたことを考え直さなければならない。

第1は、代表的個人(家計)の仮定である。いうまでもなく、日本の高齢者に置かれた状況は、健康状態(精神的健康、認知力も含む)、経済状態(所得・資産)、就業状態、家族関係、社会とのつながりといった点で個人差が大きい。つまり「こういう人が日本の高齢者です」という高齢者像があるわけではない。しかし、実際の政策論議では、多様性を無視し、過度に高齢者像を類型化・単純化して議論を進めてきた。

第2は、定常性の仮定である。高齢者の置かれた状況は、世代によっても大きく変わりうる。例えば、賃金カーブの上がり方は、若年世代ほど勾配が緩やかになっており、生涯所得も若い世代の方が少なくなるだろう。健康状態も、世代が若くなるほど、よくなっている(あるいは悪くなっている)かもしれない。しかしこれまでの議論では、今の若年世代が高齢になると、今の高齢世代と全く変わらない、つまり世代間で特徴的な差はないという前提を置いてきた。

第3は、動機づけの欠如である。医療サービスへの需要を減らすために、価格をどの程度引き上げたらいいか、医療から介護サービスに移行させるにはどんな人たちに働きかければよいのかという点が十分議論されてこなかった。そもそも、各個人がどういう選択をすることが可能で、どういった理由で選択を行っているのかをしっかりと吟味するという視点が抜け落ちていた。

つまり、多様な個人(家計)が自分の意思で選択するという現実の世界ではなく、標準化された個人(家計)が機械的に行動するという非現実的な世界を暗黙の裡に想定しているのである。誤解を恐れずに言えば、個人は動機づけによって選択や行動を変えるという経済学的思考よりも、政府が想定した通りに(それが非現実的であっても)行動するという法学的思考が重んじられてきたのである。

介護保険の分析に不可欠な「世界標準」データ

しかしこうしたアプローチをとらざるを得なかったという十分な理由もある。つまり、介護保険制度に関する実証分析が極めて貧弱であり、またその背景として、十分に実証に耐えるような「世界標準」のデータセットが日本になかったということも挙げられる。実際、介護保険導入後10年以上たった今の現実を、豊富な変数を有する大規模データで解明した論文は、残念ながら少数に過ぎない。

特に、介護保険の分析をする場合に、フォーマルな介護(介護保険を通じた介護サービス)とインフォーマルな介護(家族・親族などによる介護)との代替を考慮しなければならない。そのためには、子供がいるのかどうか、どこに住んでいるのか(近くでないと日常的に介護できない)といったインフォーマルな介護の利用可能性に関する情報がどうしても必要である。実際、子供や親とのコンタクトの頻度や子供の住んでいる場所は、地域によっても大きく異なることがわかっている(Shimizutani, 2013)。

JSTARの活用と今後の改革の方向性

これまでの政策論議を飛躍的に実効性のあるものにするためには、多様性、動機づけ、非定常性を明示的に考慮して、個人の選択に焦点を当てて解析する介護保険制度への「新しいアプローチ」が必要だ。そのためには、個人の多くの側面を同時にとらえた豊富な変数を集めた大規模なデータセットが不可欠で、しかも、加齢に伴って介護が必要になっていくプロセスを把握するためには、同じ客体を追跡するパネルデータであることが望ましい。

幸い、「くらしと健康の調査」(JSTAR)はこれまで3回の調査を終え、今年度から4回目の調査を予定している。7月1日からは、第3回までのデータは全世界の研究者に利用可能になった。国際比較も可能な「新しいアプローチ」が実現可能となる基盤が日本でもやっと整いつつある。著者が7月中旬に出席したRAND研究所によるHarmonization Research Network Meeting (インド・ニューデリー)でも、参加各国からJSTARへの強い期待と心強い協力が寄せられた。

今後は、JSTARという国際公共財を駆使して、
(1)地域密着型サービスは本当に機能するのか、
(2)介護予防サービスはどれほど有効なのか、
(3)公的介護保険のカバレッジは見直さなくていいか、
(4)市場参入(特に施設介護)をさらに促進すべきか、
(5)地域間格差は今後も拡大していくのか、
といった点を中心に、改革の方向性を1つ1つ裏付けるエヴィデンスが蓄積されていく必要があろう。今こそ、こうした趣旨に一人でも多くの方に賛同いただき、介護保険の分野でも、実証に基づいた政策の企画立案」が日本で進むことを期待してやまない。

尚、本コラム内容について詳しくはSatoshi Shimizutani (2013) "The Future of Long-term Care in Japan"(RIETI Discussion Paper Series 13-E-064)を参照していただきたい。

2013年7月30日

2013年7月30日掲載

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