「新しい資本主義」の課題 分配と成長、高質な市場カギ

矢野 誠
理事長

岸田文雄首相の「新しい資本主義」構想からは、適切な分配が成長の原動力になるという画期的理念が読み取れる。しかし分配がバラマキとなっては成長はけん引できない。分配を成長につなぐには、イノベーション(技術革新)を促進し、成果を経済の隅々にまで行き渡らせる必要がある。

それには市場の質を高め市場の機能を最大限生かす必要がある。それにより「人にやさしい資本主義」を実現すれば、世界経済をけん引する新しいパラダイム(枠組み)となるだろう。

誰もが自由に参加できる市場があり、工夫や熱意、想像力や創造力が生かされて技術開発が起きる。そうした民間活力でけん引された代表例がIT(情報技術)革命である。

とはいえ、個々の経済主体の意欲だけでは実現できない技術開発もある。その場合、初期投資の段階で研究開発や技術習得を促進する産業政策が必要になる。

図:産業政策の昔と今

古典的な産業政策は先進技術へのキャッチアップを目的とした。独立戦争直後の米国をリードした政治家アレクサンダー・ハミルトンが、保護なしには英国の先端技術に追いつけないとしたのが始まりとされる。20世紀半ばには、先端技術の学習期間短縮に向けた産業政策理論が確立し、日本の高度成長を裏打ちした。技術に大きな差があることや一定程度の市場があることが成功の条件だろう。

第2次世界大戦以来、先端技術の開発や経済構造の転換を目指す「開拓型」ともいうべき新しい産業政策が採用されるようになった。それまではワットの蒸気機関やフォードのベルトコンベヤーなど、多くの本源的技術が私的な生産活動で生み出された。それが第2次大戦期に転換され、政府主導により原子力エネルギーやコンピューターなどが開発され、戦後に有人ロケットやインターネットなどに継続された。

最先端技術の開発は、初期段階で大規模な固定費を必要とし、民間に任せていては成功しない。経済構造の転換も同じ問題がある。1960年代には根岸隆氏(日本学士院会員、東京大学名誉教授)により、収穫逓増の視点からこの問題に精緻な数学的定式化が与えられ、開拓型産業政策の基礎が作られた。それが成功するには、将来のニーズへの高い洞察力が不可欠だ。

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第2次大戦後、米国とソ連は高額予算を投じ、有人ロケット、コンピューター制御、原子力発電など、技術開発で激しく競争した。ソ連が先んじていた時期もあったが、最終的にソ連は崩壊に至り、十分な恩恵を受けられなかった。他方で米国はコンピューター技術をパソコンやインターネットに広げ、様々な応用技術を発展させた。

30年前にはコストが高すぎるとされた有人ロケット開発も、2020年代に入り、米テスラ、英ヴァージン・アトランティック、米アマゾン・ドット・コムといった先端企業の創業者の手で商業化が実現した。

米ソの競争は、産業政策の受け皿としてうまく機能する市場があったか否かで明暗が分かれた。当時の開拓型産業政策が商業化できたのは、レーガン米大統領やサッチャー英首相の改革を契機に質の高い市場が形成できたおかげもあろう。

市場は上手に利用すれば社会の隅々まで大きな利益をもたらす。そのためには公正な競争が必要だ。どんな競争にもルールがある。ルール違反は不公正だ。

市場に関しても、上手に利用するための基本ルールが太古から少しずつ形成されてきた。市場競争を律するには「無差別性原則」とも呼ぶべきルールが特に重要だ。このルールの中身は、すべての人に誰とでも取引する機会を保障するというものだ。それは、外国商人に自国での自由な旅行を保証した13世紀英国のマグナ・カルタや、人々に自らの領地への自由な往還を保証した織田信長の楽市楽座令などにルーツがみえる。

無差別性原則は売り手と買い手の双方に課せられなくてはならない。そうでなければ、市場の生む恩恵は社会の隅々まで行き渡らない。無差別性原則を無視し独占力を蓄える主体は、取引相手を自らに縛り付け、一方的な取引条件を押し付ける。「資本論」の著者、カール・マルクスがみた労働者搾取もその例かもしれない。

19世紀以来、類似の搾取行為は英国の労働法、米国の反トラスト法(独占禁止法)、証券法など様々な法律により規制され、少しずつ市場は高質化してきた。この歴史は「人にやさしい資本主義」の形成史とみてもよい。近年のSDGs(持続可能な開発目標)の普及もその一環だろう。

成長と分配は切り離せない。市場では交換を通じて莫大な経済利益が生み出される。しかし誰もが納得する分配がなされず、力の強い者による搾取が横行するようにみえては、技術開発の誘因がそがれ、次の成長にもつながらない。分配を成長につなごうとする新しい資本主義も「人にやさしい資本主義」も、同じところを目指していると思う。

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現代社会は地球温暖化、地政学的リスク、貧困と格差、中間層縮小による民主主義の危機など深刻な問題に直面する。炭素中立社会の創出、安全保障を支えるサプライチェーン(供給網)の形成、中国などの国家資本主義に対抗できる新しい資本主義の構築。こうした全世界的な課題解決には、未知の世界を切り開く開拓型産業政策が欠かせない。

革新的技術の開発には、破壊的イノベーションの創出を目指すムーンショット型の大規模研究開発の促進が必須だ。カーボンプライシング(炭素の価格付け)やゼロエミッション車導入の促進に向けた制度設計も重要だ。「人にやさしい資本主義」の前提となる高質な市場を、デジタルトランスフォーメーション(DX)やデジタルデータなどの分野に導入する必要もある。

そうでなくては、巨大プラットフォーマーなど、強者が弱者を搾取する社会が形成されることは想像に難くない。それを避けるには、競争政策を進化させ、デジタルサービスという新しい資源の有効利用を図る必要がある。もっと広くいえば、経済政策を支える思想として「新自由主義」から、高質な市場に支えられた「人にやさしい新しい資本主義」へとパラダイムを転換する必要もあろう。

欧米も日本も大規模な開拓型産業政策の採用を迫られている。キャッチアップ型産業政策に成功した1970年代以降、政府は特定の事業に傾斜的に大規模予算を投じる政策運営を避けてきた。開拓型産業政策はその歴史の転換を伴う。転換の説明責任を果たすには、EBPM(証拠に基づく政策立案)の一環として客観的データに基づく透明な政策評価が不可欠だ。

経済産業研究所では、開拓型産業政策による新しい資本主義の構築という政策目標に鑑み、4月にEBPMセンターを開設した。数量的評価にとどまらず質的評価能力も高め、「人にやさしい資本主義」の監視役として、広く社会に貢献する機能を向上させたい。

2022年4月27日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2022年5月9日掲載

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