生命・社会科学と新型コロナウイルス感染症の拡大

矢野 誠
理事長

2020年4月から始まったRIETI第5期中期目標においては、理系分野や法学、政治学、社会学など異分野の新しい知見を経済学・政策研究に取り込むべく、融合領域プログラムを立ち上げた。その中で、文理融合による新しい生命・社会科学の構築を目指して行われた研究内容が2021年12月にSocio-Life Science and the Covid-19 Outbreakとして刊行された。共著者の一人である矢野誠理事長に出版に至るまでの過程や現在、取り組んでいる研究などについて伺った(RIETI編集部 熊谷晶子)

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――新しい生命・社会科学という学際的プロジェクトには様々な分野の専門家が参加されています。どういう目的意識でこのプロジェクトを始められたのでしょうか?

生命科学においては、社会科学にも関連する新しい発見が多数あります。例えば、ゲノム解読はその一つで、病気の原因や生物の進化を理解するのに役立つと同時に、人間の行動や社会的行動にも重要な情報を与えてくれると期待しており、そのためにも社会科学と生命科学の共同研究を行いたいと考えています。

実は、社会科学と生命科学は非常に相性が良いのです。私は社会を支えているものは何なのかに興味を持っています。たとえば、お酒は絆作りに役立つと言われますが、本当にそうなのか、どういう意味があるのか、本当のところはわかりません。また、人々が調和して共存できるのはなぜか、あるいはそうできない理由は何なのかについても知りたいと思っています。

社会科学では、社会的な結びつきを社会資本(social capital)で測るのが一般的です。社会資本とは、自分と他の人々との関係を築くための適性や能力に関する、人々の性質のようなものです。20世紀初頭以降、個人の社会資本を定量化する方法が多数、開発されてきました。一般的に、収入、財産、教育、性別、仕事の経験、子供時代の経験、両親の生活などが社会資本に含まれます。加えて、社会資本は、遺伝的特徴や、健康、精神状況を含むあらゆる健康に関する経験などとも関連しているはずです。ですから、人間の生活のあらゆる側面を網羅したデータを作成し、社会のある側面に具体的に貢献しているのは何なのかを特定したいと考えました。

一方、生命科学の専門家は、人々の健康に関心を持っています。どのような環境が健康的な生活に良いのか、薬の種類や本人や両親の過去の健康状態、遺伝的な要因について研究されてきました。しかし、健康は社会的要因にも関わっています。例えば、金銭的に余裕ができて健康的な生活をする人もいれば、大酒飲みになって健康を害する人もいるかもしれない。健康状態を判断するためには、生命科学的要素だけでなく、社会的要素も含めたデータが必要になります。京都大学の同僚である松田文彦教授は、こうした生命科学的側面を研究し、関連するデータを収集していますが、社会的要素にも関心を持っています。私達はまったく異なる分野の専門家ですが、非常によく似た問題意識を持っているのです。このように、生命科学的要素、社会的要素の両面から人間や社会、健康についての理解を深めたいとの考えで、このプロジェクトはスタートしました。私達は、医学的要因だけでなく、社会的な観点からも人間についての理解を深めるため、各個人の特性について長期にわたり追跡するコーホートデータを作成しています。

一般的な意味においても、社会科学と自然科学の統合は、日本が直面している最も重要かつ喫緊の課題のひとつだと思います。日本は1990年代以降から停滞期にあり、未だに脱却できずにいます。多くの科学者が自らの専門分野だけに没頭していることに理由があるのではないかと思っています。社会が安定していて変化しないのであれば、それぞれの専門家は自らの専門知識を深めれば、効率的なのでしょう。しかし、技術、生活様式、考え方などが日々変化している現在では、専門に特化し過ぎることはイノベーションの妨げになります。

このことは、約10年前から欧米の研究者によって注目され、「サイロ」と呼ばれています。サイロには窓がなく、いったん入ってしまうと、自分の友人や見慣れた物だけを見て、外の景色は見えません。つまり、自分の専門分野だけに特化してしまうことは、変化し続ける世界におけるイノベーションや生産性にとって大きな問題です。日本の科学も非常に専門化されており、自分の専門以外の分野の専門家とコミュニケーションをとることも難しいのが現状です。

一方、世界の変化や技術の変化を考えると、イノベーションは非常に重要な要素ですが、イノベーションは通常、2つ以上の異なる要素が組み合わさったときに生まれるものです。例えば、回転寿司はフォードが発見した自動車製造のプロセスで使われたベルトコンベアと、日本の伝統的な寿司という2つが組み合わさってできたイノベーションです。また、キャスター付きのスーツケースは、5000年以上も前から存在する車輪と、スーツケースを組み合わせてできた新しくて便利な製品イノベーションです。社会でイノベーションをおこしていくためには、異なる分野の専門家同士が協力し合う必要があります。ですから私は、この研究を通して、どうすればサイロを壊せるのかについて実験し、その方法を世の中に示したいと考えています。

――本の第1部 “Socio-Life Scientific Approach to Covid 1”では、さまざまな視点からパンデミックに関する最新の研究を紹介されていますが、各研究者が社会生命科学の構築の重要性を指摘しています。生命に対する大きな脅威に対抗するために、行動変容と政策の役割を強調されていますが、詳しくお聞かせいただけますでしょうか。また、どういう行動変容がコロナの感染を拡大させたのか、あるいは抑えたのでしょうか。

私達の研究では、特に感染症発生の初期段階では、感染拡大を決定的にする重要な要素は政治的な要因であることが示唆されました。もちろん、感染症の蔓延が自然現象であることは言うまでもありませんし、人々の自己防衛の努力も重要です。例えば、途上国では、医療機器が非常に重要になるでしょう。また、収入、財産、教育、医療制度など、社会科学的要因が感染拡大の速度や範囲に影響します。しかしながら、政治指導者の行動が感染拡大を左右する圧倒的な重要性を持っているということがわかりました。例えば、政治指導者が感染予防策をきちんと示すことが効果的な感染拡大防止対策になるのです。政治指導者が系統的にメッセージを発信すれば、社会科学的な要因による影響をすべて無効にするほど、圧倒的な重要性を持っているのです。また、政治指導者、メディア、その他、様々な人が情報を発信しましたが、情報そのものについても重要性が大きいことがわかりました。こうしたことは一般にも言われていますが、実際にデータを使って統計的に捉えることに大きな意義があります。人々がどのように行動し、パンデミックに対処しようとしたのかを理解するためのベースとなります。今後も、効果の数値化に取り組みたいと思います。

――第10章は、ブロックチェーンによる研究データ構築に関する内容です。研究者はデータを共有する際に大きな問題に直面しますが、これをブロックチェーン技術で解決しようという取り組みを紹介されていました。具体的に何ができるのでしょうか。

ブロックチェーンとは、各デジタルデータに固有の所有権を付与することを可能にするインターネット技術です。例えば、仮想通貨はブロックチェーンによって口座の所有者が固定され、通貨取引が可能です。また、ブロックチェーンは、巨大なコンピュータネットワークのOSのようなもので、プログラムを書くことができる共通のOSを持っているのです。つまり、ブロックチェーン上では、あらゆる種類の契約上の取り決めをデジタルの世界で実行することができるのです。例えば、異なる種類のデータについて、異なるユーザー権限の階層を設定することが可能です。研究者の間でも、あるグループはデータのこの部分のみ、他のグループは違う種類のデータも使用できる、ということができるのです。

ブロックチェーン上でデータが保護されるため、データの改ざんは非常に困難です。ブロックチェーンによって安全性の高い環境が作られれば、研究データを異なる人との間で安全に使用することができます。松田先生と共同で作成している健康に関するデータにおいては、個人の検体を検査し、各個人にそれぞれの検査データの結果を知らせる必要があるのですが、こうした特定の個人情報の提供を別の方法でやろうとすると莫大なコストがかかります。また、生命科学の分野だけでなく、社会科学の分野などにも広がって欲しいと思います。例えばパスポートの申請を例にとると、現在は旅券事務所に出向く必要がありますし、時間もかかります。ブロックチェーンを使えば、手続きも迅速化し、データ共有にかかるコストも非常に安くなります。

さらに、将来的には、ブロックチェーンが医療データ全体を共有するための良いリソースになり得るという理解が広まってほしいです。例えば、病院や医師が蓄積している膨大なカルテ情報ですが、病院はカルテ保存義務の5年を過ぎるとカルテを廃棄します。しかし、本来、10年前の病気に関する情報は現在の健康状態と関連しているのは明らかです。こうした医療に関わる個人データを安全な方法で各個人が簡単に入手できるようになれば、医療サービスの質は大幅に向上するでしょう。世の中にこうしたブロックチェーンの新しい活用法が広まって欲しいと思います。ブロックチェーンは、データを安全な方法で共有し、低コストで利用できる優れた作業空間を提供することができるのです。

――最後に、今後、取り組みたいとお考えの研究について教えてください。

現在、コロナに関連するデータ収集に取り組んでいますが、これはとても重要なことです。もしコロナ前の社会と、コロナ後の社会のデータがあれば、行動変容の決定要因を正確に把握することができたでしょう。実際には、コロナが始まった後にデータ収集を始めたので、コロナが始まった時点からベンチマークを設定することになりました。2021年からデータ収集を始めデータを蓄積していますので、遡って例えば1年前のデータとの変化を見れば、コロナ以前の状況を推定することはできます。その一方で、パンデミックは約10年ごとに発生し、繰り返されています。15年前にはSARSがあり、そして現在はコロナです。ですから、良質のデータの構築が重要で、今の時点から始めても決して遅くはありません。そのためには、コロナ関連のデータの構築を今後も続ける必要があります。そしてコロナの経験から、人の行動を変えさせるのは非常に難しいということを示すデータも作成したいと考えています。ですから、人々が何に影響を受け、どのように行動を変えるのかを今後も調べていきたいと思っています。

一方で、5-6年前に始めた「社会をひとつにするものは何か」という研究ですが、現在、中断中ですのでこちらも再開したいです。すでに、人間の行動や社会の形成などに関連する可能性のある、ゲノム因子が幾つか見つかったという、興味深い予備的な結果を得ています。しかし、現在のところはまだデータが限定的なので、もう少しデータを蓄積し、予備的な発見が正しいかどうかを判断したいと思っています。

さらに、イノベーションにも非常に興味があります。さまざまな専門分野の人たちが集まって、お互いに交流しながら、何が社会に重要なのかを理解するために新しいアイデアを生み出すようなプロジェクトを作りたいと思っています。そのためには、さまざまな分野の研究者を集めることが非常に重要だと思います。この本の出版はその実現のための基盤を作るための非常に良い機会だったと思います。今回の共同研究には、イギリス、フランス、日本から第一線の医学の専門家、社会科学の研究者が多数参加しています。ですから、今後もこの研究ネットワークを広げていきたいと思っています。

2022年2月1日掲載

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