高市早苗政権の看板政策である「責任ある積極財政」を核とするサナエノミクスの全体像はまだ明らかではないが、やはり、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の3本の矢を柱とした、アベノミクスへのオマージュ(敬意)とその再来への意識は明らかだ。
しかし、アベノミクスの起点となった2013年初めの経済状況は、今とは全く異なる。すなわち、日本経済は、物価が上がらない環境が続くなか、株安、円高にあえいでいた。筆者は24年5月8日付の本欄で、アベノミクス、とくに異次元の金融緩和の成果は、実体経済への直接的な影響というよりも株高と円安を生んだことだと論じた。
現在のように庶民が物価高で苦しむ一方、日経平均株価が5万円を超えて最高値を更新するとともに、円安がさらに進んでいる状況においてアベノミクスの再来を選択するとすれば、無益どころか副作用のほうが心配になる。
補正予算で組まれた歳出総額18.3兆円に及ぶ大規模な財政出動はどうか。物価高が供給制約から生じているとすれば、おこめ券などに象徴される消費者への補助金といった物価高対策は、需要を増加させ、さらにその市場価格を上昇させることで物価高を深刻化させる可能性がある。
長い間、金利がない、物価がほとんど上昇しないという世界を経験してきた日本では、マクロ経済学の常識が忘れ去られてしまったのではないか。物価、金利が上がる世界になれば、財政出動は当然ながらさらなる物価上昇圧力になるし、長期金利の上昇にもつながる。財政出動に国債市場が反応するようになったのは正常化の表れである。
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一方、マクロ経済学の教科書からすれば、通常とは異なる動きもみられる。それは円レートだ。財政出動は通常の開放マクロ経済モデルであれば、金利の上昇を通じて円高方向の圧力を生むはずだ。しかし、円安傾向は収まらなかった。もちろん、財政出動が他国の景気も拡大する場合には円高効果が弱まることが知られているが、今回その可能性は低いといえる。
25年12月に日銀が政策金利の0.25%の引き上げを行ったが、直後の市場は円安で応じた。日銀の金利引き上げペースが、想定よりも緩やかになると市場が予想した。この動きは、事前に予想されていない金融政策ショックが為替レートに影響を与え得るという既存の実証研究と整合的だ。
政府債務の利払い負担の急増や国債市場の混乱を避けるために「中央銀行は金利の引き上げに消極的にならざるを得ない」と「たかをくくられた」結果としての円安なら、余計に問題だ。経済政策の一丁目一番地が物価高対策なら、まず政策当局は、物価高を深刻化させている円安の是正に真摯に向き合うべきだ。
現在の円ドルレートの水準が過度の円安になっていることは、日米間の財別の購買力平価をみても分かる(表参照)。しかし、政策当局の為替レートに対するコントロール力は為替介入を含めても限定的であり、また中央銀行は為替レートを金融政策の目標にすることを極度に嫌う。
こうした環境にあって、近年の円安の要因は金融政策ではなく、日本が米国に比べて貿易財の生産性上昇で後れを取っているという、実物的な側面を強調する議論がある。これは2人の経済学者の名を冠した、バラッサ・サミュエルソン(BS)効果と呼ばれるメカニズムだ。
為替レートの長期的な決定理論として、2国(日米)の物価水準が等しくなる、つまり、経済全体の財・サービスのバスケットでも一物一価が成立するような裁定が働くように名目為替レートが決定するとする購買力平価説がある。しかし、実際には長期でも成り立たないとされる。
このため、2国の物価水準の比率、すなわち自国物価水準(円)/他国物価水準(ドル)×名目為替レート(円/ドル)で計算される実質為替レートは1から乖離(かいり)し、変動しうる。
この乖離が生じるメカニズムを示したのがBS効果である。まず、製造業などの貿易が可能な財を生産する部門では、貿易による裁定で一物一価が成立すると仮定する。すると、自国で貿易財の生産性が高まれば、その価格は国際的に同一なので、賃金が上昇することになる。
一方、国内の労働市場が完全であれば、労働者の移動を通じて賃金が均等化し、サービスなどの非貿易財部門の賃金も上がり、結果的に非貿易財の価格も高まる。例えば理髪店の生産性は国によってあまり変わらないはずだが、貿易財の生産性の高い国ではその価格も高くなる。こうした非貿易財の価格上昇が自国の物価水準全体の上昇につながり、実質為替レートに増価圧力が生じる。
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日本の1990年代前半までの長期的な円高トレンドは、上記のBS効果が顕在化した代表例と捉えられてきた。一方、それ以降の実質円ドルレートの減価傾向は、日本の貿易財の非貿易財に対する相対的生産性上昇率が米国のそれを下回ることにより、逆BS効果が働いているとする立場が、この実物面を重視する議論である。しかし、過去十数年程度続く円安傾向の要因として、逆BS効果を強調するのは無理があるのではないか。
なぜなら、そもそもBS効果は貿易財における一物一価の成立、つまり、その条件を満たすような名目為替レートの変化を前提としているからだ。しかし、現実には貿易財の一物一価からの乖離もある程度長い期間継続することが明らかとなっている。例えば、日本の輸出企業が、円高になっても米国の現地販売価格を変えなければ一物一価は成り立たないし、財が差別化されていればそもそも価格裁定は働かない。
貿易財の一物一価が成り立たなければ、交易条件、つまり輸出(自国の貿易財)価格/輸入(外国の貿易財)価格も変化し、それが実質為替レートにも影響を与えることになる。それはBS効果より顕著な場合があることがいくつかの実証分析でも示されている。
貿易財の一物一価が成り立つ場合、日本の貿易財の相対的生産性の伸びが米国に比し低くなれば、その相対的価格は、割高になるはずだが、現実には日本では物価低迷が継続していたわけで、輸出物価は輸入物価よりも割安となり、交易条件は悪化してきた。この場合、貿易財の裁定が働けば、名目レートは逆BS効果の議論とは反対にむしろ円高圧力を受けるはずだ。
円安是正に向けた目安としては、表にあるような、貿易財とみられる耐久消費財や資本財の購買力平価が参考になるかもしれない。ことしの日本経済及びマクロ経済政策においては、真の「正常化」に向けた動きや取り組みが進むことを期待したい。
2026年1月13日 日本経済新聞「経済教室」に掲載