2024年12月19日に日本銀行から過去25年の金融政策を評価する「金融政策の多角的レビュー」(以下、レビュー)が公表された。筆者はレビューとともに公表された有識者講評を執筆する機会を得た。本稿では、レビューにおける大きな論点である「賃金・物価が上がりにくいことを前提とした慣行や考え方」に焦点を当ててさらに論じる。
レビューの特徴であり評価すべき点は、なんといっても過去の金融政策について反省すべき点があったことを率直に認めていることだ。特に「期待への働きかけだけで物価上昇率を2%にアンカーするほどの有効性はなかった」など、大規模量的緩和策が想定していた、期待への働きかけを通じて予想物価上昇率の引き上げを目指したことが、現実には難しかったことを認めたことは目を引いた。
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ではなぜ、想定ほど効果が発揮されなかったのだろうか。レビューでは「賃金・物価が上がりにくいことを前提とした慣行や考え方」(以下、「慣行」)の転換が容易ではなかったためとしている。
その背景として「我が国の予想物価上昇率は、適合的な期待形成の影響が大きい傾向にあり、過去の経験などにも強く影響を受けて形成されてきた」ことを挙げた。適合的な期待形成とは将来の予想が現在・過去の状況に依存しやすいことを意味し、予想物価上昇率において主要国と比較をした上で、日本はそのような傾向が強いとの分析を引用している。
1970年代以降、改めて説明するまでもなく、合理的期待形成(現時点で利用できる情報はすべて利用する期待形成)学派がマクロ経済学を席巻した。それまで期待形成として標準的な考え方であった、適合的な期待形成自体は過去の遺物として葬り去られた。
合理的期待形成の重要な含意は、政府・中銀は経済主体が政策を予測した上で行動するため、彼らの予測を予測して政策を実行しなければならないことにある。政府が裁量的、機会主義的な政策を実行しようとすると、民間はそれを先読みし行動してしまうので政策効果が弱まってしまう。
従って予想に反するサプライズを行うか、むしろ政策当局の自由度を狭め、ある特定の政策にどれだけコミットメントできるかが問われる。しかし、こうした合理的期待形成を前提としたマクロ経済学の「常識」に依存する余り、政策当局は自らのコミットメントがありさえすれば経済主体の予想を自由に変えることができるという「妄想」にとらわれてしまった。
レビューでは「慣行」を従来のマクロ経済学の期待形成の枠組みの中で考えているが、ミクロ経済学、ゲーム理論的な視点で再考する必要がある。筆者は特に比較制度分析のアプローチが有益と考えている。
つまり、「慣行」を慣習や社会規範などと同様に、比較制度分析でいうところの制度=ゲームの(ナッシュ)均衡とする、つまり、ゲームのルールに従いプレーヤーが戦略的に行動した結果として生まれる安定的な行動パターンと捉えるアプローチだ。様々な経済主体の戦略の組み合わせとして、「物価と賃金が上がらない」という均衡が選択されていると考える。
例えば賃金では労使間のゲームにおいて今世紀以降、賃金のベースアップより雇用維持を重視するという均衡が続いてきた。価格設定においては、企業間のゲームにおいてコスト引き下げ競争と価格低下競争の悪循環という均衡に陥っていたという解釈が可能だ。
この場合、こうした個々の均衡の実現が「物価が上がらない」という共有化された予想を生み、それがまたその均衡を強化するという循環が繰り返される(図参照)。各経済主体は利用できる情報を最大限使って戦略を決定しているわけではなく、昨日まで続いてきた均衡が今日も成立していることを前提に行動している。それは情報取得・処理コストを節約している意味で合理的である。適合的な期待形成はこうした理論的根拠を持つだけでなく、現実の期待形成としてはごく自然なものであろう。

レビューでは、最近の変化について「企業の賃金・価格設定行動に従来よりも積極的な動きがみられ、賃金が上がりにくいことを前提とした慣行や考え方にも変化がうかがわれる」と指摘している。比較制度分析の枠組みで考えれば、均衡が変わるためには、各経済主体が選択している価格・賃金決定に関する戦略の合理性、つまりはゲームの前提が環境変化に対応して変化していることが必要だ。
しかし、変化したようにみえる「慣行」も外生ショック的な要因が強い物価上昇に対し、各経済主体はそれに受動的に対応する形で価格や賃金設定を変えてきたのが実態ではないか。「慣行」を形成した労働市場や最終市場における競争環境・企業行動などには、構造的な変化の兆しは顕著に表れていない。
レビューのように予想物価上昇率の適合的期待形成の強さという日本における独自性を強調すればするほど、2%の物価目標の設定は適切であったかという疑念が生まれる。レビューは2%の水準の妥当性の一つとして「(先進国の)多くは物価目標を2%に設定している」ことを挙げている。しかし、欧米とは異質な経済状況の長期的継続を考えれば、2%の目標はそもそも日本にとっては荷が重すぎ、1%程度の目標が妥当だったのではないか。
24年に国政選挙のあった主要国では日本に限らず与党が軒並み議席を減らした。これは世界的にみても長らくディスインフレが継続した後、インフレが政策当局者の考える以上に国民を苦しめたことを如実に示している。それでもまだ物価上昇が安定的でないと判断した日銀は、国民の不興を買わないようにその目標をいつのまにか物価ではなく、賃金にすり替えたようにもみえる。中銀が労使の賃金交渉の行方にここまで執着することも珍しい。
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政府も含めて、賃金上昇が物価上昇を上回る形で目標を持続的・安定的に達成したいというのが本音であろう。それはいいかえれば、実質賃金の上昇を目指すということに他ならない。
これは企業ベースでも国ベースでも労働分配率や交易条件一定という前提に立てば、生産性向上によって実現するしかない。しかし、生産性向上は金融政策がコントロールできる範囲外である。潜在成長率や自然利子率が極端に低下してしまえば、金融政策の自由度が大きく制約されてしまうのは仕方ない。そこを民間に見事なまでに見透かされていたともいえる。
にもかかわらず政府・中銀は、民間の期待をあたかも自由自在に操ることができる、オールマイティーな存在であるかのような考え方を持ち、実力不相応な物価目標を設定するという誤りを、すでに異次元緩和の出発時点で犯していたと総括できよう。
2025年1月14日 日本経済新聞「経済教室」に掲載