賃金が年齢や勤続年数に応じて上昇する年功賃金は、日本の労働市場では広く一般的にみられる現象だ。そのため、終身雇用制、企業別組合とともに戦後の雇用慣行の特徴と位置づけられてきた。ではなぜ右上がりの賃金カーブが見られるのか。これまでの代表的な説明は、次の2つに集約される。
ひとつは、人的資本理論による説明だ。年齢が高く経験が豊かな労働者は、若くて経験が浅い労働者より仕事がよくできる(正確には労働の限界生産物の価値が大きい)。賃金は労働の成果に対して支払われるものだから、仕事ができるベテランの労働者の賃金の方が高くなる。
一方、2番目の説明は、賃金後払い説と呼んでいい。この説は、長期雇用の下では、若くて経験の浅い労働者は、自分の生み出す仕事の成果よりも少ない賃金で我慢させ、年齢が高くなり経験豊富になると、労働の成果よりも高い賃金を受け取るという支払方式が合理的だと主張する。
ひとつの大きな理由は、情報の非対称性にある。監視していないとサボるかもしれない労働者を一生懸命働かせるため、経営者はわざと賃金を後払いにし、一層の努力を促すわけだ。ただ年齢に応じ高くなる賃金をいつまでも払い続けるわけにはいかない。そこで定年制を設け、就職から定年までの長い期間で、賃金の総額と労働の成果の合計が一致するよう調整している。
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2つの説の最も大きな違いは、年齢や経験年数で生産性がどう変わるかにある。人的資本理論では、年齢が高く経験豊富なグループは、若く経験の浅いグループに比べ、生産性の上昇に応じて賃金も上昇することになる。しかし賃金後払い説によると、生産性は賃金ほどには上昇しない。
これまで賃金の決定要因に関する実証研究は多いが、年齢や経験年数による生産性の変化まで検証したものは日本では少なく、2つの説のどちらが現実にあてはまるのか、はっきり解明できていない。海外では、労働者と事業所のデータをマッチさせて、年齢や勤続年数の構成を考慮した事業所レベルの賃金関数と生産関数を同時に推定する「構造アプローチ」によって、賃金と生産性カーブの比較研究が盛んに行われている。
そこで、筆者は国立社会保障・人口問題研究所の野口晴子氏と共同で、認可保育所の保育士に関して、賃金と生産性の構造解析に取り組んだ。特に公立保育所の高コスト体質が指摘される一方、都市部の低年齢児を中心とする「待機児童問題」は依然解決されていない。その背景には高コスト構造による保育サービスの供給不足があるとされ、それが結果的に女性の就労や出産にも悪影響をもたらしているとの議論もよくみられる。しかしコスト構造の解明自体、生産性との対比を考慮しないと、実は政策的なインプリケーション(含意)も出しにくい。
ちなみに、構造アプローチも万能ではない。例えば一般企業の場合、同じ企業の中でも労働者や仕事の内容がかなり異質で、推計が難しい。しかし認可保育所の場合、労働者の大半が保育士で、保育サービスだけを生産している上、設備や保育士の数の面などでも基準が決められている。そのため公立か私立かという経営主体の違いがはっきり表れる。
今回の分析では、生産性は保育所が児童を受け入れている時間を保育士1人当たりに直したものとして定義した。認可保育所は、児童年齢により必要な保育士の数が決まっているので、生産性の算出に際し、受け入れ時間は児童の年齢でウエート付けした。
サンプルとしては、内閣府が2002年に関東十都県で実施した保育所約1300カ所、約9300人の保育士の調査データを用いた。なお単純平均では、公立の常勤保育士の平均月収は私立より3割高い。しかし非常勤の場合は、常勤よりもかなり低く、公立と私立では大きな差はない
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以下では、表にもとづき、年齢グループ別の相対的な賃金や生産性をみていこう。
まず常勤保育士では、賃金は年齢に応じて明らかに高くなる。公立では、45歳以上の賃金は30歳までの1.6倍強だ。私立の場合は1.5倍弱で、賃金カーブが右上がりなのは同じだが、公立ほどこう配は急でない。一方、生産性は私立では年齢で大きく変わらず生産性カーブは平らだが、公立は年齢が高いほど生産性が低い可能性もある。この結果からは、賃金後払い説の方がうまく説明できる。
しかし非常勤保育士の結果は、常勤の場合と対照的だ。まず賃金は公立も私立も年齢に応じて上昇せず、賃金カーブは平らだ。一方、公立の場合は、生産性カーブも平らであるのに対し、私立の場合は、生産性は年齢が高くなるとむしろ上昇する。
これでわかるのは、保育サービスという同じセクターの中でも、経営主体が公立か私立かで、常勤保育士でも賃金カーブの傾きが異なるし、同じ経営主体の中でも、常勤と非常勤では、賃金体系が全く異なるということだ。さらに、この結果が持つインプリケーションについて、2つの点を指摘したい。
第1は、常勤保育士の賃金カーブは非常に急こう配で、特に公立では生産性の上がり方とかなり乖離している点だ。こうした賃金体系は、暗黙のうちに仕事を辞めない非常に強いインセンティブ(誘因)を与えている。
これは多くの自治体で保育士に「事務職」の俸給表を当てはめたためだ。しかしこの賃金体系は、労働者に求めるスキル(技能)が企業に固有な場合には理解できるが、保育士のスキルは企業特殊的でなくむしろ一般的なものだ。
福祉の充実が叫ばれ始めた1970年代には多くの保育所が作られたが、そのころ採用された保育士は現在50歳近く、賃金カーブの最も高い部分の賃金を得ている。これは生産性を大きく上回り、高コスト体質になってしまう。
もちろん賃金の後払いの性格からは、現在の賃金は若い時に安い賃金で働いた見返りともいえるが、今となっては、急こう配の賃金カーブが生産性とみあわないコスト負担を強いている。公立保育所の賃金体系は、事務職から福祉職俸給表への転換が進められつつあるが、いったん導入された体系を短期間に大幅に変更することは難しい。
さらにこうした賃金体系の狙いは、あくまで労働者の努力を引き出すことにあるはずだ。保育サービスのように労働集約的な産業では、それがサービスの質の向上に結びつくことが期待される。しかし保育サービスの質は、公立が私立よりも優れているわけではない、という実証結果も得られている。そもそも公立では解雇の可能性が非常に低いために、そうしたメカニズムが働かないのだろう。
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第2は、私立の非常勤保育士が、生産性が高いにもかかわらず、低賃金に甘んじている点だ。これは日本の労働市場の歪みの一端を示しているのだろう。つまり保育士の多くは女性で、結婚や出産を機に労働市場からいったん退出してしまうケースも多い。再び労働市場に参加した場合、自らの技能や経験も生かしてやはり保育士として働きたいという希望が多い。
だが保育所側には、常勤保育士のような高い賃金を出せない事情もあり、多くが非常勤として採用される。その中で、公立以上に財政が厳しい私立では、非常勤保育士がより大きな役割を果たすことを期待し、労働時間面など賃金以外の待遇で公立より有利な条件を提供して、優秀な保育士を集めているのだろう。
日本の労働市場の大きな特徴とされる年功賃金の合理性の実証研究はまだ始まったばかりだ。特に公的サービスでは、ここで取り上げた保育士ばかりでなく、他の職種の賃金体系でも、生産性と無関係に決められている可能性が高い。民間企業と競合する公的サービスの賃金体系は、生産性とのギャップを明確に検証し、民間企業に比べたコスト体質を明確にしていくべきだ。また多くの産業での検証の積み重ねによって、年功賃金の存在理由がさらに明らかにされ、今後の日本の労働市場の将来設計の方向性も浮かび上がってくるだろう。
2008年5月15日 日本経済新聞「経済教室」に掲載