社会保障制度の再設計へ 「世界標準」のデータ整備を

清水谷 諭
RIETIファカルティフェロー

社会保障制度の再設計には、その政策論の基礎となる包括的なミクロデータの整備が不可欠だ。米国では中高年者の所得・就業・健康状態などの広範な個別情報を収集、活用する調査体制が整い、それが「世界標準」になりつつある。日本はまずこの面で遅れを取り戻すべきである。

欠けている2つの視点

これまでの社会保障論議には、次の共通する展開がみられる。日本の高齢化のスピードは国際的に見ても非常に早い。同時に出生率は低迷を続け、急激な回復は期待できない。高齢化と少子化が同時に進行すると、支える人たちが少なくなり、支えられる人たちが急増する。その結果、給付と負担のバランスが崩れ、社会保障制度が破綻してしまう。だからこそ抜本的改革が必要だ。

こうした議論自体には大きな異議を唱える論者は少ないだろう。しかしこれまでの膨大な社会保障論議や毎年のように行われる制度改正にもかかわらず、根本的な解決策を見いだせないまま、時間だけが経過しているというのが現状ではないだろうか。

これまでの議論には2つの大きな視点が欠けていると思われる。まず、密接に関連する年金、医療・介護といった社会保障政策や高齢者雇用などがそれぞれ縦割りで議論されているだけで、分野を超えた横同士のつながりが非常に弱い。

社会保障政策のあり方を考える際に、何よりも重要なのは、個別の政策を担当する役所でなく、政策の恩恵を受ける受益者の立場に立つことだ。例えば、高齢者を年金の受け手、医療の受け手、介護の受け手というようにバラバラにみていては有効な政策は見いだせない。政策は「総合力」として生活レベルの向上に役立っているのかどうかが問われなければならない。

次に問題なのは、社会保障支出の増加を前提とした財源論だけに議論が集中している点だ。よく見られる議論は、機械的に計算された社会保障給付の将来推定をもとに、負担額の試算を示すやり方だ。もちろん財源論は非常に重要だが、それだけに目をとらわれていると本当に重要な点を見落としてしまう。

中でも無視できないのは、政策変更に対して個人がどのように反応するかという点だ。年金の給付水準を変えると、所得・資産の年齢別のパターンや労働供給も変わってくる。医療・介護の自己負担が変われば、当然、需要も変わってくる。

さらに無視できないのが個人の多様性だ。例えば、ひとくちに高齢者といっても、所得が高く多くの家族や友人に恵まれ、健康な生活を送る人たちもいるが、所得が低いうえ、健康状態もすぐれず身寄りのない人たちもいる。社会保障制度の影響は個人や世帯員の健康状態、所得・資産といった経済状況、家族関係、社会参加活動といった要素と切り離すことはできない。財源に偏った議論では、こうした異質性を前提にしたきめ細かい政策をつくれない。

国際比較に向け各国が連携開始

効率的で質の高い社会保障制度をつくるためには、縦割り方式で財源論に特化した「伝統的アプローチ」を一刻も早く打破する必要があることは明らかだ。逆に受益者の立場に立って、分野横断的で個人の違いにも十分目配りのきいた「新しいアプローチ」を確立するという発想の転換が必要だ。こうした考え方は世界的に見れば当たり前だが、日本のこれまでの議論の多くはこうした視点に欠けていた。

ではそれを具体化するためにはどうしたらいいか。ケーススタディーの積み重ねでは、政策のデザインに直結する全体像にたどり着くのはなかなか難しい。1人ひとりの声を積極的に取り入れ、生活の実情を社会保障政策に結びつける唯一の手段は、豊富な情報を含む数万人単位のデータベースの構築とその解析作業だ。

社会保障政策に限らないが、政策が期待通りの成果をあげず、予期しない副作用を招いた例は多い。データに基づいて事後的に政策評価を行い、期待した成果や副作用、無駄などを厳しくチェックし、制度改善に生かしていくことが必要だ。特に社会保障給付額は、国家予算の大きな部分を占めており、無駄をなくす意義は大きい。

米国ではミシガン大が中心となり、HRS(Health and Retirement Study)とよばれる中高年者の大規模な追跡調査が続けられている。この動きは欧州や韓国・タイなどアジア諸国にも広がっている。調査対象は引退する前の50歳前後から、医療・介護サービスの利用が多い高齢者まで幅広い。どの調査も質問項目は経済、健康、就業、家族関係、社会参加など多岐にわたる。調査員がコンピューターを用いて時間をかけて直接対象者から聞き取りを行うという点でも共通している。このため1回当たり億単位の費用が投入されている。

米国で新しい社会保障政策を実施する際には、ホワイトハウスからHRSできちんとした証拠があるのか必ず確認されるという。また各国のデータベースの構築は、国際共同プロジェクトとして進められ、各国のリーダーたちの緊密な連携のもとで、国際比較が可能なように緻密に調査設計がされている。

実はこうした「世界標準」のデータベース整備の動きの唯一の空白地帯が日本である。その整備の立ち後れによって、日本自身の社会保障政策の政策評価が遅れているだけではない。高齢化の先進国として、海外から注目されているにもかかわらず、貴重な教訓を世界に発信できないでいる。

受益者本位へ日本は正念場

もっとも、ようやく日本でも、「世界標準」の大規模な中高年者追跡調査が始まりつつある。2005年度から経済産業研究所の吉冨勝所長を中心に、意気込みのある研究者が結集して、精力的な作業が続けられている。2回の予備調査を終え、06年度から第1回調査が始まった。全国5つの自治体から強力な支援を得て、医療・介護のレセプト(診療報酬明細書)データとの結合も可能になりつつある。

日本でも中高年者の追跡調査の試みは部分的になされてきたが、「世界標準」からはほど遠かったのが現状だ。こうした新しいプロジェクトによって、日本でも実証研究に基づいた社会保障の政策評価・企画立案が本当の意味で実現可能となりつつある。データは個人を絶対に特定できない形にし、一定の条件を満たせば、研究者にも公開される予定で、政策効果を客観的にチェックすることができるようになる。

わずかな例だが、データからはこれまで十分検証できなかった以下の論点を明らかにできる。

(1)引退時点で、老後の生活をまかなう十分な資力が備わっているかどうか。その中で、公的年金はどのような役割を果たすべきか。これがわかれば公的年金給付の適切なあり方がはっきりする。

(2)日本人の引退年齢が非常に高い理由。これは早期引退が社会保障負担の急増を招いている欧州では非常に注目されているトピックだ。

(3)年金制度や定年制、健康状態が高齢者の労働供給に与える影響。これは将来の労働力不足をどうまかなうかという観点からも重要だ。

(4)在宅介護と施設介護の役割をどう分担していくか。家族介護に頼れるのはどういうタイプの人たちか。いまの介護のあり方が本当に生活水準の質の向上をもたらしているのか。日本が長寿を達成している一方で、海外に比べて幸せだと答える人が少ないのはなぜか。

(5)医療・介護サービスで価格や自己負担割合が引き上げられたとき、無駄な給付が減るのか、それとも必要な給付が抑制されるのか、またそうした効果がどのような人々に見られるのか。要介護度の悪化を防ぐには、何が効果的か。こうした点は医療・介護制度の改正には欠かせない。

「世界標準」の調査には研究者の英知と情熱、公的機関の十分な理解、対象者の十分な理解が不可欠だ。億円単位の資金が必要とはいえ、今の医療介護費の0.001%に満たない。第1回調査には一橋大の大型研究プロジェクトも新しく加わっている。最終的には全国から1万人程度のサンプルを収集する予定だ。

今後、こうした調査の継続には、多くの自治体の理解と危機感を共有する社会保障関連の財団などの多面的な協力が欠かせない。こうした試みが軌道に乗れば、受益者本位の社会保障政策へ前進し新しい知見が世界でも生かされることになる。

2007年3月16日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2007年3月28日掲載

この著者の記事