クラウドコンピューティングと企業の対応―IT基盤の再構築急げ

元橋 一之
ファカルティフェロー

昨年来の経済危機を受け企業のIT(情報技術)予算も緊縮状況が続いているが、ITイノベーションの新潮流は次々と押し寄せてくる。厳しい中でも流れをしっかりつかみ、必要に応じて新たな取り組みに挑戦する必要がある。

特に今後のIT経営のあり方を根本から変える可能性のある技術が「クラウドコンピューティング」である。これは、ITユーザーが自前でコンピューターやソフトウエアなどのIT資産を持たず、インターネットで接続された外部のITシステムを活用する仕組みのことだ。いわば、電気がコンセントから供給され、蛇口をひねれば水が出てくるように、コンピューターサービスがインターネットから供給されるわけである。

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クラウドコンピューティングのサービス供給者として代表的なのは、グーグル、アマゾン、セールスフォース・ドットコムなど米国の新興企業である。そのサービス内容は、サーバーや外部記憶装置(ストレージ)、ソフトウエアの開発環境を提供するインフラ提供事業者(PaaS、Platform as a Service)と、ソフトウエアアプリケーションをインターネット上で提供するソフトウエア提供事業者(SaaS、Software as a Service)に分類できる。グーグルやアマゾンは自社が保有する膨大なサーバー能力やストレージ容量を用い、主にPaaS事業を展開する一方、顧客管理ソフトで有名なセールスフォースはSaaS事業で圧倒的な強さを持つ。

クラウド利用のメリットとしては、まず「スピード」が挙げられる。グーグルやアマゾンのサーバーやストレージサービスは、クレジットカードがあれば即時に利用可能で、自前でネットワークシステムを構築するのとは雲泥の差がある。またITシステムの処理能力やデータ容量などに対する柔軟性が高い。

さらに利用量に応じて課金されるシステムなので、コンピューター需要の変動が大きい場合に経済的となる。例えばクリスマスシーズンに大量の注文があるサイトの運営などには最適といえる。最後に「価格」である。グーグルはある程度のサイズまでは無料でサーバーやストレージスペースが使える。アマゾンのサーバーも1時間あたりの使用料が10セントからとなっている。

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このようにクラウドコンピューティングは、成長が著しいベンチャー企業やIT予算に限りがある中小企業ではメリットが大きく、わが国でも経済産業省が、財務会計を中心としたアプリケーションをSaaSとして中小企業に普及する政策を進めている。しかし現状では、日本での利用はまだ一部の先端的ユーザーにとどまっている。同省の「情報処理実態調査」によると、2007年度にSaaSを活用したことのある企業は調査企業全体の7.1%にすぎない。PaaSの公式統計はないが、本格的なサービスが始まったのがここ1、2年で、SaaSより遅れていると思われる。なぜクラウドコンピューティングの普及がスムーズに進まないのか。

図はSaaS導入・利用上の課題に関する同調査の結果をまとめ、SaaSの利用者と非利用者のそれぞれに分けて、該当するとした企業の割合を示したものだ。

SaaSの導入・利用上の課題

利用者をみると、「カスタマイズの自由度が低い」との不満が多い。SaaSはインターネットを介してパッケージソフトを利用する形態をとるので、どうしても作り込みの受注システムより自由度が低くなる。「既存システムとの連携が困難」との声も多い。

また非利用者で特に目立つのが、「重要データの秘密保持が問題」や「信頼性・安全性が不十分」という点だ。クラウドを利用すると、顧客データなどの重要な情報が社外のサーバーで処理され、保存されることが、ユーザーの不安感を招いている。

1つの解決策はサービスレベルの保証である。例えば一般的なPaaSサービスは99.9%のシステム稼働率を保証している。しかし銀行などの安定的な可動が必要なシステムにはこのレベルは十分でないし、稼働率が達成できない場合は、一定割合のサービス使用料が割り引かれるだけで、システム停止によるビジネス損失は補償されない。

以上のように現状にはまだ問題が多いが、クラウドコンピューティングの動きは決してとどまることはないだろう。ITシステムは、コンピューターや基本ソフト(OS)で構成されるプラットフォーム(IT基盤)とその上で動くアプリケーションソフトで構成される。プラットフォームの部分はインターネットの進展とともに標準化やオープン化が急速に進んできた。その過程で規模の経済が強く働く。アマゾンやグーグルが低料金でPaaSサービスを提供できる秘密はこのスケールメリットにある。

一方でアプリケーションソフトは、用途やユーザーの状況で異なるため、製品差異化の要素が残る。セールスフォースは顧客情報管理のソフトで有名だが、パッケージとはいえ企業の状況に応じ相当のカスタム化が必要となる。現状では、プラットフォームとアプリケーションの両者を統合したシステムを作り込むことが多いが、今後、両者のズレが一段と広がり、統合型システムの経済性が急速に失われていくと思われる。

ユーザー側から見ると、両者を切り離すことでより効率的なシステム構築が可能になる。ただその前に、日本企業は社内のシステムが個別の業務ごとに分断され、全社的に最適化されていないことが多い点に留意する必要がある。

クラウドコンピューティングを効果的に活用するには、まず全社的なITシステムの最適化が必要だ。日本郵政グループは、郵便局を、郵便や郵便貯金、簡保など各種サービスの提供を行う拠点として位置付け、ここでの顧客情報などをグループ内で共有するためセールスフォースのシステムを活用している。新規システムを短期間に立ち上げるためにSaaSの活用が有効だったという。事業部門ごとに顧客管理システムを持つ企業が全社的最適化を行う際に参考になる事例といえよう。

経産省の調査によるとITシステムの全社的最適化ができている日本企業の割合は、米国と比べ少ない。クラウドコンピューティングのうねりが大きくなる前に、日本企業はビジネスプロセスの解析や見直しを進め、共通のIT基盤の整備に向けた全社的な取り組みが必要である。

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また、クラウドコンピューティングが進めば、プラットフォームとアプリケーションを一体で提供する日本の大手ITベンダー(システム開発会社)の競争力が急激に失われるだろう。これは統合型ITベンダーの最大手、米IBMも例外ではない。

大手ITベンダーは、システムやデータはあくまでユーザーの自前だが、システム運営を分散処理や仮想化技術などで最適化する「プライベートクラウド」というコンセプトを打ち出している。これは全社的なITプラットフォームの構築には有効だが、その先のクラウドコンピューティング時代には対応できていない。ユーザー企業間のITプラットフォームの共通化をテコとして一歩進んだ取り組みが必要になろう。

インターネットは、その通信スピードを考えれば実はローカル性が存在する。特に中国やインドのような新興国のネット事情を考えると、高品質な情報通信を前提とした業務用クラウドの提供は無理だと思われる。この点でIBMは中国の無錫にデータセンターを構築しているが、これはローカルなプラットフォーム構築に向けて先鞭をつけた事例といえる。

日本の強みは世界最速のブロードバンドとモバイル環境を持っていることだ。この良好な通信インフラを活用した国内における共通IT基盤の構築を戦略的に進めることも必要だと思われる。PaaS事業は米国ベンダーを中心としたプラットフォーム競争が始まったところだが、デファクト標準ができる前に国家レベルの行動を起こさないと将来に大きな禍根を残すことになる。

2009年11月11日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2009年12月16日掲載

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