投資意欲引き出すには 脱・停滞へ無形資産投資カギ

宮川 努
ファカルティフェロー

岸田政権の下で「新しい資本主義」を巡る議論が活発になっている。議論の出発点として日本での「資本」の現状を把握することは最低限必要な作業だろう。

日本の民間部門の資本ストックは21世紀に入ってからほとんど増えていない。2000年の資本ストック額は692兆円に対し、19年は736兆円と40兆円程度の増加にとどまる。1990年代後半の5年間で約60兆円も増えていたのとは対照的な停滞だ。

経済成長率を①労働力②資本③上記以外の技術進歩の要因(通常、全要素生産性と呼ばれる)などに分けた成長会計では、10年代(10~18年)の資本の寄与は0.13%にすぎない。経済全体の成長率の15%ほどだ。

経済成長や経済的豊かさが「資本」の蓄積により生まれるという考え方からすれば、日本は資本主義を再考する以前の国家になってしまったのではないか。日本の長期停滞を観察してきた海外識者が「Japanification(日本化)」を懸念するのは、資本主義がもつ活力を長期にわたり失うことへの警戒感からだろう。

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安倍政権は、異次元の金融緩和政策がもたらした円安が、企業収益拡大を通じて株価上昇を実現し、設備投資の増加につながることを期待していた。なぜそれが実現しなかったのだろうか。多くの経済学者やエコノミストは、企業収益が設備投資よりも現預金保有の増加に向かった点に着目している。

財務省「法人企業統計調査」によれば、10年度末からの10年間で企業は利益剰余金を約180兆円増やし、その44%(約80兆円)が現預金の増加に回った。一方、有形固定資産の増加は2兆円にすぎない。この背景を企業のポートフォリオ選択の立場から考えると、企業が国内で実物投資した場合の投資収益率がマイナスになるのを恐れ、金利がゼロでも現預金保有を増やしたと解釈できる。

残り100兆円はどこへ行ったのか。その答えは、投資その他の資産という項目の中の株式取得と長期貸付金が10年間で138兆円増えたことに表れている。この多くはM&A(合併・買収)などに使われたとみられる。M&A助言のレコフのデータによれば、日本企業のM&A件数は10年前から増加の一途をたどっている。特に日本企業による海外企業の取得額は15年に10兆円を超えている。

なぜ国内ではなく海外で投資するのか。明らかなのは、海外での投資の方が需要拡大が見込め収益率が高いからだが、それだけではない。海外からの需要増加に国内からの輸出で対応する場合、常に為替レートの変動リスクを覚悟する必要がある。為替レートの変動に応じて生産要素の投入を変化させればよいのだが、日本企業は資本だけでなく労働も固定的な生産要素としてとらえているため、こうした対応をとれない。

価格や売り上げの変動を不確実性ととらえ、この不確実性の増加が設備投資の減少要因になることは、森川正之・一橋大教授らの分析で明らかにされている。

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では、どのようにして停滞している設備投資を回復させ、日本経済の活性化につなげればよいのか。鍵となるのは無形資産への投資だ。停滞する有形資産投資とは新たな建物の建設や機械の取得などだ。一方、無形資産投資というのは、研究開発活動による知識の蓄積やソフトウエアの購入、芸術・娯楽分野での新たな価値創造などを指す。

日本企業の海外直接投資も、日本企業が国内で培ってきた製造ノウハウなどの無形資産を輸出し、そのノウハウにより収益を生み出している。逆に日本企業が海外企業を買収するのは、日本企業にない組織力や人材という無形資産を購入することにほかならない。

この無形資産投資は、企業収益の増加に伴う企業価値の上昇にもかかわらず、なぜ有形資産投資が停滞しているのかというパズルを解く手がかりにもなる。

筆者と一橋大大学院の石川貴幸氏はジャニス・エバリー米ノースウエスタン大教授らの研究に倣い、企業価値は有形資産からだけでなく無形資産からの収益も反映しているとみて、企業価値の上昇と有形資産の投資低迷のギャップを無形資産投資が埋めると考えた。実際の有形資産投資額から企業価値を基に推計される投資量を引いた差(投資ギャップ)は、バブル崩壊からマイナス方向へ広がり、その後大きく縮小せずに16年時点でマイナス6.5%となっている。ここに無形資産投資を加えると、マイナスのギャップ率は1.7%と4分の1に縮小する。

筆者は、日本はこれ以上に無形資産投資を増加させる余地があると考える。

図は、住宅投資を除く全投資に占める有形資産投資と無形資産投資の比率を示したものだ。日本の無形資産投資の比率はドイツとほぼ同じだが、米国と英国は全投資の半分近くが無形資産投資だ。この背景には、有形資産投資の比率が高い製造業の付加価値比率が日本やドイツでは20%あるのに対し、米英は10%という違いがある。しかし今後、日本がサービス業の強化やデジタル化を推進していくとすれば、有形資産に比べて収益性が高い無形資産投資を推進すべきだろう。

図 設備投資に占める有形資産投資と無形資産投資の割合

ただ研究開発投資やソフトウエアなどの無形資産投資を生産性の向上につなげるには、高度な人材の育成や獲得、新たな技術に対応した組織の構築などの付随的な支出が必要だ。つまり無形資産投資を増やすということは、こうした付随的な支出の増加による一時的な生産性低下や収益悪化も覚悟することを意味する。

80年代後半にパソコンやインターネットの商用利用が可能となったが、それが米国の生産性向上に結実したのは90年代後半だった。高度人材の蓄積や新技術に適した組織変革を待つ必要があったためだとされる。デジタル化も人材育成も遅れている日本には、30年以上前の米国ほどの余裕はない。直ちに取りかかるべきは次の2点だろう。

第1に9月発足のデジタル庁の活用だ。コロナ危機での感染者の把握や給付金の効率的配布を目指し、政府間および政府と民間の情報インフラを構築すれば、全国的なデジタル化の起爆剤となる可能性がある。

第2に官民を通じた人材育成だ。政府部門はデジタル化の推進とともに職員のスキル向上を図るべきだ。民間部門では、政府が検討する賃上げと訓練費用に対する税額控除の組み合わせをより人的資本蓄積に重点を置いたものにすべきだ。

短期的に賃上げが実現しても、生産性に見合わない賃金水準は持続的でない。将来の賃金上昇につなげるためにも、付加価値の1%を生産性向上要因である人材育成費に使うことを奨励すべきだろう。そうすれば、日本のオフJT(職業外訓練)の規模(国内総生産比)は欧米先進国に近づく。

いま日本に求められるのは、短期的な分配政策だけでない。長期的視野をもつ人材の育成と技術革新に対応した組織構築を通じて、資本主義が本来有する活力を取り戻すことだ。

2021年12月16日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2022年1月25日掲載