政府が今年6月に公表した「骨太の方針」では、人材育成と生産性向上が重要な政策課題として位置づけられた。第2次安倍政権の発足以来、生産性向上政策の重要性を強調してきた者としては「ようやく」という感が強い。
もちろん安倍政権が全く成長戦略に手を付けてこなかったわけではない。4年半の間に農業分野や観光分野での改革に着手し、最近も欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)締結で大枠合意している。それでも政権発足以来、「デフレ脱却」の名の下に金融政策がアベノミクスの中心であり、成長戦略が脇役だったことは否めない。
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その成長戦略が今になって生産性向上という形で中心的な政策課題として浮上してきた理由は2つ挙げられる。
1つはアベノミクスの中心だった金融政策が手詰まりとなり、これ以上有効な金融緩和政策を打ち出せない状態に至ったことだ。もう1つはこれまでの経済政策と少子化の影響から需給ギャップが縮小し、労働市場が1980年代後半のバブル期以来の逼迫状況になったことだ。つまり未達成の目標も残されているが、景気対策を中心に据える時期は過ぎ、長期的な潜在成長力を高めるタイミングになったという判断である。
成長戦略や構造改革に関する政策が発動された当初は、政策効果が特定の分野に偏りがちなうえ、その政策効果が広く行き渡るまでは不利益を被るグループも現れる。このため政治的に不人気な政策であり、長期政権でなければ実施しにくい政策なのはやむを得ないところだ。ただその点を割り引いても日本の成長戦略は後手に回り続けてきた。
バブル崩壊以降、長期安定的な政権が少なかったという政治的な要因もある。それ以外に日本に確固たる成長戦略が根付かなかった最大の要因は、バブル崩壊の処理が長引き、その影響が顕在化した97年にIT(情報技術)革命という米国を中心とした新たな技術革新が起きたことにある。新たな技術革新の波に対応しなくてはならないまさにそのときに、不良債権問題が顕在化し、日本経済全体で資金仲介機能がまひしたのである。
民間企業も金融機関も自己防衛のために後ろ向きの対策をとった。民間企業はリストラを最優先し、非正規雇用を増加させていく。金融機関は債権回収に注力し、リスクを伴う融資を抑制せざるを得なかった。米国でIT革命を背景に新規企業が続々誕生し成長していった状況とは対照的な経済環境だった。
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図はバブル崩壊後のIT投資と人材投資の推移を示したものだ。IT投資はコンピューターとその付属設備、通信設備、ソフトウエア投資の合計だ。一方、人材投資は厚生労働省「就労条件総合調査」の中の教育訓練費のデータを使って、社外訓練(off the job training)の費用の部分を推計したものである。
日本で金融危機が生じた97年以降、IT投資の伸びが鈍り、今世紀に入ると減少傾向で推移していることがわかる。それ以上に衝撃的なのが、社外訓練費でみた人材投資の動きだ。人材投資はバブル崩壊直後から低下し始め、その後いったん持ち直したものの、やはり今世紀に入って低下の速度を速めている。
もちろん日本では社内訓練(on the job training)に注力をしている企業も多い。だが社内訓練はこれまでの技術の継承や改良には適していても、新たな技術を組織に浸透させるには十分ではない。
2007年版の米大統領経済報告は、IT化が生産性向上に寄与するには、人材投資などの無形資産投資の補完が必要だと述べている。実際、滝滓美帆・東洋大教授と筆者の最近の実証分析では、IT投資と人材投資は相乗効果を持ち、生産性の向上を通じて資本利益率を上昇させるという結果を得ている。
この研究結果は、IT投資と人材投資による生産性向上策の不足が、日本での金融危機発生以降20年間にわたる利益率低下の主因であることを示唆している。こうした経緯を踏まえると、内閣府が基礎的財政収支見通しの前提条件としているバブル期並みの生産性向上率の達成は非常に困難だと言わざるを得ない。
ではIT化のさらなる進展と人材育成のために、政府はどのような対策をとるべきだろうか。まずIT化に関しては政府が自らの組織について電子化を進めるべきだ。骨太の方針で政府は民間の技術高度化の推進を目標にしているが、政府自らが保有するデー夕の有効活用を図るべきだ。
北欧のエストニアのような電子政府を一挙に実現することは不可能だろう。それでも各府省が保有するデータを相互に利用するシステムを確立することにより、企業や個人が様々な手続きの際に提出する書類の手間は大幅に減るはずだ。マイナンバーや法人番号が整備されてきた現在、政府が保有するデータは新たなインフラとなりうる。
企業や政府がIT化を進める際、最大の障害として挙げられるのは人材不足だ。前述したようにこれは長年改善が放置されてきた結果であり、一気に解決できるものではない。本来はITや人工知能(AI)に精通した若い世代が起業し、そうした企業が成長することで世代交代と技術革新の浸透が図られていくのが理想的だ。しかし日本経済ではこのプロセスが驚くほど進んでいない。従って遅い調整プロセスを前提とするならば、既存の企業で働いている人々も含めた全世代での人材育成が必要となるだろう。
その際に必要となるのはデータを使いその分析結果を基に判断していく、いわゆるデータサイエンスの素養だ。既に若い世代のためにデータサイエンス学部が創設されている。この考え方が教育課程の各段階で一層拡充される必要がある。こうした若い世代を受け入れる既存の組織についても、組織改革や意思決定プロセスの改革を通じて、データに基づいた意思決定が受け入れやすい体制を整えていかなくてはならないだろう。
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今夏に一橋大学で開かれたアジア諸国の生産性データベース構築を話し合うコンファレンスでは、IT化の進展と人材の活用を比較可能な形で計測することが今後の課題として位置づけられた。アジア諸国は自らの経済成長に関する基礎データとして、こうした分野の計測に力を入れていくと考えられる。
またコンファレンスの後に開催されたシンポジウム(経済産業研究所主催、日本生産性本部、一橋大学共催)でも、デール・ジョルゲンソン米ハーバード大教授は「アベノミクスの第2局面」をテーマとする基調講演で、人材の育成と活用を重要な生産性向上策の1つに挙げている。
IT革命という新たな技術革新が起きた時期に、金融危機で日本経済全体が後ろ向きの対応を余儀なくされたのは不幸な出来事だった。だが90年代のドイツも東西統合による経済格差の調整に伴い低迷を続けていたが、今世紀に入ってからはEU統合の効果や労働市場改革もあり、先進国の中で最も堅調な経済となっている。また日本と同時期に通貨危機に見舞われた韓国も厳しい構造改革を経て、いくつかの産業では世界的な大企業を有する国家に成長した。
こうした事例をみれば、日本だけがいつまでも歴史的な不運を理由に長期的な生産性の低迷を甘受するわけにはいかないと考えるべきだろう。
2017年8月22日 日本経済新聞「経済教室」に掲載