元切り上げ議論の環境を-中国自身にも得策-

関志雄
上席研究員

外貨準備の急増に象徴されているように、人民元は切り上げ圧力にさらされており、長期にわたった元安傾向が終えんしようとしている。緩やかな元高は中国自身にとってメリットが大きく、国際社会の要望に応えるが、それを実現するには国内外の政治面でのハードルを乗り越える必要がある。

交易条件悪化で元の実質安進む

中国は1970年代末に改革開放政策へ転じてから、年平均で10%近い高成長を達成してきたにもかかわらず、人民元が長期にわたって下落しているため、1人当たり国内総生産(GDP)はいまだ1000ドル前後にとどまっている。

現在、人民元の対ドルレートは78年と比べて、名目ベースでは約80%、内外の物価変動を割り引いた実質ベースでは約70%安くなっている。これは、中国当局が競争力を維持するために意図的に元安政策をとってきた結果であるという見方もあるが、当局がコントロールできるのは名目レートだけであり、実質レートはあくまでも経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)を反映していると理解すべきである。

名目為替レートの中長期的な傾向を考えるときには自国通貨が内外のインフレ格差に比例して減価するという(相対的)購買力平価が1つの目安となる。購買力平価が成り立つことは、実質為替レートが一定であることを意味するが、為替レートを購買力平価からかい離させ、実質為替レートを変動させる力として働く次の2つの効果がある。

1つは、成長率の高い国ほど実質賃金の上昇率が高く、これを反映して実質為替レートの上昇率も高いというバラッサ=サミュエルソン効果である。もう1つは、交易条件(輸出品の輸入品に対する相対価格)の変化である。他の条件が一定であれば、交易条件の悪化は実質為替レートの下落を意味する。

中国の場合、前者の仮説に反し、高成長を遂げているにもかかわらず元の名目為替レートが国内と米国のインフレ率との格差以上に減価しており、実質為替レートも大幅に下がっている。これは、中国が農村部に数億人もの余剰労働力を抱えているため、貿易財部門における生産性の上昇が必ずしも実質賃金の上昇につながっていないことを反映していると考えられる。

さらに、改革開放に伴う中国の交易条件の悪化も元の実質安に働いている。70年代末に始まった改革開放政策の結果、中国経済は豊富な労働力という比較優位に沿って世界経済に組み込まれつつある。中国が計画経済下の重工業化政策を放棄し、労働集約型製品に特化した結果として、国際市場での労働集約型製品の供給が増大する一方、技術・資本集約型製品に対する需要も増えている(中国の国内生産が減少する分を補う形で)。

この需給関係の変化は、労働集約型製品の技術・資本集約型製品に対する相対価格の低下、ひいては中国の交易条件の悪化をもたらしている。これを反映して、人民元が長期にわたり実質ベースで下がり続けたのである。

切り上げ先延ばしの弊害大きく

従って、今後は次の2つの条件のどちらか1つでも満たされるようになれば、人民元は実質ベースで切り上げの方向に転換すると考えられる。1つは、農村部の余剰労働力が完全に工業やサービス部門に吸収されることであり、もう1つは産業の高度化により、輸出拡大のけん引役が現在の労働集約型製品から技術・資本集約型製品にシフトしそれに伴って交易条件が改善することである。

前者の場合、余剰労働力の規模があまりにも大きいため、少なくとも20年はかかるであろうが、後者の場合、すでに交易条件改善の転換点に到達していると見られる。

その表れとして、対外収支の黒字拡大とそれに伴う外貨準備の増加に象徴されるように、人民元の切り上げ圧力はすでに顕著になっている。特に、世界貿易機構(WTO)加盟をきっかけに海外からの直接投資が拡大し、また、新たに国際貿易に参入できるようになった民営企業の輸出の増大に支えられて、資本収支と経常収支はともに大幅な黒字を計上している。

中国の2002年末の外貨準備は前年に比べ、GDPの6%に当たる742億ドルもの増加がみられ、2864億ドルに達している。これは日本に次いで世界第2位、中国の輸入のほぼ1年分にも相当する高水準である。

中国は公式には管理変動制を採用していることになってはいるが、中央銀行が公表する対ドルレートは日々の動きがほとんどなく、人民元が事実上ドルにペッグされている。現在のように人民元が割安の水準に設定されると、市中に余っているドルが当局に吸い上げられる結果、外貨準備が増える。仮に中国が変動制を採用し、市場への介入が一切行われていなければ外貨準備が増えない代わりに為替レートが上昇していたはずである。

外貨準備が通貨の安定を維持する手段として必要であることに異議はないが、その保有に伴うコストを併せて考えると、多ければ多いほどいいということにはならない。

発展途上国である中国は、海外から資金を調達する際、リスクプレミアムが上乗せされて高い金利を負担しなければならない。米国のTB(財務省証券)で外貨準備を運用すると、非常に低い収益率しか得られないのである。本来、こうした資金は、米国へ融資するのではなく、収益率のもっと高い国内投資に生かされるべきであることを考えれば、外貨準備を保有する機会費用は非常に高いことが分かる。

一方、外貨準備の急増が貨幣供給のコントロールを困難にし、不動産市場のバブルに拍車をかけている。また、中国はすでに日本を抜き米国の最大の赤字相手国となっており、貿易不均衡の一層の拡大は通商摩擦を招きかねない。このように、外貨準備の増大と為替レートの切り上げというトレードオフ(二律背反)関係から見ると、当局は前者から後者に重点をシフトすべきである。

為替レートの調整に加え、為替制度自身も改革を迫られている。まず、円ドルレートの乱高下や、多くのアジア通貨が管理変動制に移行したことを背景に、ドルペッグの下での人民元の対ドル安定は他の貿易相手国の通貨に対する大きな変動をもたらし、中国の貿易や経済全体の不安定要因になっている。また、資本の流動性が高まる中、通貨供給量と金利のコントロールがますます難しくなり、金融政策の独立性を保つためにも、現行の事実上の固定レートを放棄しなければならない。

ドルペッグからの離脱は、対外収支を含めた経済のファンダメンタルズが良好で、為替レートに若干の上昇圧力がかかっている時に行われるのが望ましいが、こうした前提条件は整いつつある。その際、大幅な切り上げよりも変動幅を少しずつ拡大する形で毎年数%の上昇を容認するのが現実的であろう。ただ、今のところ政府の新しい指導部が指名される全国人民代表大会の開催(3月)を前に政策のイニシアチブが採りにくいこともあり、人民元の切り上げと新しい為替制度への移行に関して当局は慎重な姿勢を崩していない。

外圧は逆効果 信頼関係築け

その一方で、日本をはじめとする主要工業国が世界的デフレの解消と対中貿易不均衡の是正を理由に人民元の切り上げを求めている。確かに以上分析してきたように人民元が上昇する余地は十分あるが、中国の新指導部にとって外圧に屈する形での切り上げは是が非でも避けたいシナリオであろう。その意味で最近相次ぎ各国の金融当局者によって言及された元高待望論は人民元の切り上げを遅らせることはあっても、早めることはないであろう。

このように、人民元の切り上げは、中国自身にとっても望ましく、それによって国際社会の期待に応じることもできるにもかかわらず、関係国の間で信頼関係ができていないため、それが実施される展望はまったく開かれていないというジレンマが生じている。

中国の経済力はGDPや貿易規模から見て、すでに英国に匹敵するレベルに達しており、現在の元の切り上げを求める声に象徴されるように、主要工業国の産業調整やデフレ、貿易不均衡などの問題を議論するときに、もはやその存在を無視できなくなっている。

従って、中国を蚊帳の外においた現在の国際経済政策の協調は限界に来つつあり、今後は同国の7カ国(G7)財務省・中央銀行総裁会議への早期参加を視野に入れるなど、お互いの信頼関係を高めることのできる体制を整えていくべきではないだろうか。

2003年02月14日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2003年2月17日掲載