Ⅰ.はじめに
マサチューセッツ工科大学のダロン・アセモグル教授とサイモン・ジョンソン教授、それにシカゴ大学のジェームズ・ロビンソン教授の三人が2024年のノーベル経済学賞を受賞したことを受けて、彼らの研究対象となる経済発展における制度の役割は、改めて注目されている。
経済発展における制度の重要性は、中国経済が低迷した計画経済の時代と飛躍的発展を遂げた改革開放の時代を比較すれば明らかである。中国は、所有制改革と市場メカニズムの導入をテコに高成長を遂げていたが、やりやすい順で改革を漸進的に進めてきたため、既得権益とイデオロギーの抵抗を破ることができず、「体制移行の罠」に陥っている。これは近年、経済成長率が大幅に低下している一因にもなっている。
中国が「体制移行の罠」を克服し持続的な経済発展を実現するために、アセモグル教授とロビンソン教授が共著『国家はなぜ衰退するのか』で示した仮説が参考になる。彼らによれば、「包括的な制度」と「収奪的な制度」の違いが国家の成功と失敗を分ける鍵となる。包括的な制度では私有財産権が保護され、法の支配と公平な市場システムが機能し、イノベーションや人々の経済参加が促進される。一方、収奪的な制度では一部のエリートが権力と富を独占し、一般市民の権利が制限されるため、長期的な経済発展が妨げられる。
アセモグル教授とロビンソン教授は、中国の急速な経済発展を「包括的な経済制度」と「収奪的な政治制度」の特殊な組み合わせによる一時的な成功として評価している。しかし、生産要素の動員を越えて、イノベーションが求められる発展段階に達すると、政治制度の収奪的性質が経済発展の障害となるという問題も指摘している。彼らは、中国経済が持続的な発展を実現するために、民主化と法治化を通じて、「収奪的な政治制度」から「包括的な政治制度」への移行が必要であると訴えている。
Ⅱ.計画経済の失敗Vs.改革開放の成功
経済発展における制度の重要性は、経済が低迷した計画経済の時代(1949年から1970年代末)と飛躍的発展を遂げた改革開放の時代(1970年代末以降)の中国を比較すれば明らかである(注1)。
北京大学の張維迎教授は、中国における改革開放と計画経済の成否を左右する決定的要因を、所有制改革と市場メカニズムの導入による経済主体の行動変化に求めている(注2)。
計画経済体制下の中国では、全ての経済活動が中央政府による計画に基づいて行われていた。企業は生産量や価格を自主的に決定できず、市場の需要に柔軟に対応することが不可能であった。全ての企業が国有であったため、経営者や従業員には効率を向上させるインセンティブが存在しなかった。この結果、深刻な物資不足や品質の低下、技術革新の停滞などの問題が発生した。
1970年代末に改革開放政策が導入され、中国経済は大きな転換期を迎えた。まず、農村部での人民公社の解体と生産請負制の導入により、農民の生産意欲が劇的に向上した。都市部では、国有企業改革が進められ、経営の自主権が徐々に拡大された。また、民営企業の設立が認められるようになり、新たな経済主体が市場に参入することで、競争が活発化した。
市場経済への移行に伴い、個人の創造性と企業家精神が解放された。利益を追求することが正当化され、リスクを取って新しいビジネスに挑戦する人々が増加した。特に、沿海部の経済特区では、外資との合弁企業の設立が認められ、先進的な技術やマネジメントノウハウが導入された。これらの企業家たちの活動が、中国経済の高度成長を牽引する重要な要因となった。
張維迎教授は、中国の経済発展において最も重要なのは、制度の変革であったと指摘している。市場メカニズムの導入により、価格が需要と供給を反映するようになり、資源の効率的な配分が可能となった。また、所有制改革により、経済主体が自らの利益のために効率的に行動するようになった。競争原理の導入は、企業の技術革新とサービス向上を促進した。しかし、中国における所有制改革と市場化改革はまだ途上にあり、国有企業の支配的地位の是正や、政府による市場への過度な介入の抑制、金融市場の整備など、更なる改革が求められるという。
Ⅲ.漸進的改革の限界
中国は、計画経済から市場経済へと移行するプロセスにおいて、国際通貨基金(IMF)をはじめとするワシントンに本拠地を置く国際機関が推し進めた「ビッグバン・アプローチ」または「ショック療法」と呼ばれる「急進的改革」を採用せず、抵抗が少なく、やりやすい順で進める、「漸進的改革」を採ってきた。この戦略が功を奏して、1990年代に前者を採用したロシアや東欧諸国が経済危機に見舞われたのとは対照的に、中国は、社会の安定を維持しつつ、長期にわたって高成長を遂げるなど、良好な経済パフォーマンスを実現した。しかし、改革が進むにつれて、やりにくい分ばかりが残るという形で、漸進的改革の限界が表れてきた。
まず、改革の進展が遅いために計画経済体制の下で形成された思考様式が改められず、イデオロギーが改革の深化を妨げている。例えば、国有企業の低効率が早い段階から認識されていたにもかかわらず、民営化がタブー視され続けた。
また、漸進的改革の実行に当たっては利益構造の変革には着手せず、差しさわりのない部分から調整を行うため、徹底した措置がとれない。それゆえに、一度行った措置をいずれ調整しなおす必要が生じるが、すでに行われた政策の下で新たな既得権益集団が形成されてしまい、彼らは更なる改革には消極的である。
さらに、政府が依然として規制や許認可の面において、強い権力を持っているため、官僚が権力を濫用して、私利を図るという腐敗行為は跡を絶たない。このような状況の下では、民営企業が国有企業との競争において不利な立場に置かれ、公平な市場秩序が形成されにくい。
最後に、抵抗が少なく、やりやすい順で改革を進めていくと、どうしてもやりにくい部分が残ってしまう。政治家や官僚たちが、自分の特権や地位を手放したくないため、統治者に有利な「改革」だけは進み、一般大衆の利益が置き去りになる例はしばしば見受けられる。実際、既得権益集団の抵抗に遭って、大型国有企業の民営化や、所得の再分配に関わる多くの改革は停滞状態に陥った。
Ⅳ.「体制移行の罠」という仮説の提起
このような中国の状況を踏まえて、清華大学凱風発展研究院社会進歩研究所・清華大学社会学系社会発展研究グループ(以下では「清華大学研究グループ」)は、習近平政権が登場する直前の2012年に、中国経済が「体制移行の罠」に陥っているという仮説を提示した(注3)。ここでいう「体制移行の罠」とは、計画経済から市場経済への移行というプロセスで作り出された国有企業などの既得権益集団が、より一層の変革を阻止し、移行期の「混合型体制」をそのまま定着させようとする結果、経済社会の発展が歪められ、格差の拡大や環境破壊といった問題が深刻化していることである。
こうした認識を踏まえて、同グループは、中国が「体制移行の罠」から抜け出すための方策として、次のような提案をしている。
まず、市場経済、民主政治、法治社会といった普遍的価値を基礎とする世界文明の主流に乗らなければならない。なぜならば、世界文明の主流を拒絶することは、中国が「体制移行の罠」に陥った主因であると同時に、現在の利益構造を維持する口実になっているからである。
また、改革に関する意思決定を、これまでのように各地方政府や各政府部門に委ねるのではなく、中央政府の上層部によるグランド・デザイン(中国語で「頂層設計」)の下で進めるように改めなければならない。改革を推進するに当たり、国民の支持を得るため、彼らの意見に耳を傾けると同時に、公平と正義を基本価値としなければならない。
さらに、政治改革を加速させなければならない。権力の腐敗は、政府の権威と政策実行能力を弱めている。政治改革は、政府の透明性の向上など、権力を制約するメカニズムの形成から始めなければならないという。
Ⅴ.停滞に陥った市場化改革
「体制移行の罠」という仮説が提起されてから10年以上経ち、その間の中国経済の展開は、まさにそれを裏付けたものである。
2012年11月の中国共産党第18回全国代表大会を経て誕生した習近平政権は、当初、経済改革にとどまらず、体制改革全般にわたって積極的であると見られていた。特に2013年11月に開催された中国共産党第18期中央委員会第三回全体会議(三中全会)で審議・採択された「改革の全面的な深化における若干の重大な問題に関する中共中央の決定」(以下、「決定」)において、「中国の特色ある社会主義制度を整備し、発展させ、国家の統治システムと統治能力の現代化を推進する」ことが、全面的に改革を深化させる上での総目標と定められ、それに向けて、習近平総書記自らがそのトップを務める「中央全面深化改革領導グループ」が設立された。また、「決定」では、「市場に資源配分における決定的役割を担わせる」ことが明記され、法治国家の建設を推進する必要性も強調された。そして、政府は、腐敗撲滅に力を入れることを通じて民心を得ようとした。
しかし、振り返ってみると、習近平政権になってからの市場化改革は総じて、停滞していたと言わざるを得ない。特に、「混合所有制経済の推進」「現代的企業制度の整備」「国有資産の監督管理体制の改善」を中心に進められてきた国有企業改革は、国有企業の独占力の強化、政府による経営への干渉の拡大に拍車をかけている。当局による規制強化を受けて民営企業の経営環境が急速に悪化してきたことも加わり、「国進民退」(国有企業のシェア拡大と民営企業のシェア縮小)は進んでいる。住宅バブルの崩壊や、労働力の減少と米国によるデカップリング政策などの影響も重なった結果、中国の経済成長率が大幅に低下しており、近いうちにGDP規模が米国を抜いて世界一になるというシナリオは遠のいた。
市場化改革が思う通りに進んでいない理由について、国務院発展研究センターの魏加寧・王螢螢等は、次のように指摘している(注4)。
まず、政策決定プロセスにおいて自由な討論が制限されており、これは改革の進展を妨げる要因となっている。国務院の関連部門が独自に改革案を制定する場合、広範な意見や第三者評価が欠如しているため、部門の利益を優先しがちで、公衆や国家の利益を最大化することが難しい。
次に、中央政府と地方政府の協力が不足している。自由貿易区の設置のように、中央の過剰な規制が地方の自主的な改革を妨げ、効果的な改革が進まない一因となっている。また、中央政府による腐敗撲滅の努力にもかかわらず、地方政府の不正事例が頻発し、結果として中央政府の権威が損なわれている。
さらに、改革の焦点が分散しており、具体的な成果を上げるための明確な指針が欠如している。加えて、改革を進める上での明確な受益集団の不在は改革推進の意欲を低下させ、逆に既得権益層の抵抗を招く結果となる。
最後に、人事考課と改革の成果が連動していないため、優秀な幹部が持つ改革意識や能力が十分に活用されていない。インセンティブ・メカニズムが欠如していることで、改革を推進するためのモチベーションが削がれている。
これらの要因が相互に影響し合い、市場化改革の進展を妨げているのである。
Ⅵ.求められる「収奪的な制度」から「包括的な制度」への転換
中国が「体制移行の罠」を乗り越え、持続的な経済発展を実現するための方策を考える際に、アセモグル教授とロビンソン教授が共著『国家はなぜ衰退するのか』で示した仮説が有益な示唆を提供している(注5)。
彼らは、共著『国家はなぜ衰退するのか』において、国家の成功と失敗を決定づける最も重要な要因は「制度」であり、特に「包括的な制度」と「収奪的な制度」の違いが明暗を分ける鍵となると主張している。包括的な制度では、私有財産権が保護され、法の支配が確立し、公平な市場システムが機能する。このような制度はイノベーションや新規参入を促進し、多くの人々に経済活動への参加機会を提供する。一方、収奪的な制度では、一部のエリート層が権力と富を独占し、一般市民の権利が制限される。その結果、イノベーションが抑制され、経済的機会が限定的となり、長期的な経済発展が阻害される。この二つの制度の違いが現代の国家間の経済格差を生み出しているのである。実際、先進国のレベルに達しているほとんどの国は、包括的な制度を採用している。
その上、制度には強い経路依存性がある。つまり、歴史的な出来事や決定が、その後の制度形成に大きな影響を与え、一度確立された制度は容易には変化しないということである。例えば、多くの国において、植民地時代の統治形態が、現代の制度にも影響を及ぼしている。また、歴史的な重要な転換点において、どのような選択をしたかが、その後の制度の方向性を大きく左右する。
アセモグル教授とロビンソン教授は、従来指摘されてきた地理的要因や文化的要因の重要性を否定し、気候や天然資源の有無、文化的な違いは、国家の発展における決定的な要因ではないと主張している。むしろ、制度のあり方がこれらの要因をどのように活用するかを決定すると論じている。
彼らは、この分析のインプリケーションとして、持続的な経済発展には包括的な政治・経済制度が不可欠であり、民主主義と市場経済は相互補完的な関係にあることを挙げている。収奪的な制度から包括的な制度への移行は、既得権益層の抵抗があり容易ではないが、市民の政治参加と社会運動を通じて実現可能である。
アセモグル教授とロビンソン教授は、1970年代末以降の中国における急速な経済発展を、「包括的な経済制度」と「収奪的な政治制度」の特殊な組み合わせによる一時的な成功として評価している。改革開放政策により、市場経済の導入、私有財産権の保護、対外開放などの経済的な制度改革が進められ、これが高度経済成長を可能にした。しかし、同時に政治面では依然として一党支配体制が続き、権力が集中した収奪的な制度が維持されているという「非対称な制度」による発展には限界があると警告している。政治的な制約が、真の意味での創造的破壊や技術革新を妨げており、知的財産権の保護も不十分なため、革新的な企業家精神が抑制されている。彼らは、生産要素の動員を越えて、イノベーションが求められる発展段階に達すると、政治制度の収奪的性質が経済発展の障害となるという問題も指摘している。
このような認識に立って、アセモグル教授とロビンソン教授は、中国が持続的な経済発展を実現するために、包括的な政治制度への移行に向けた、政治的な意思決定過程の透明性向上、法治の確立、民主化を通じた市民の政治参加の拡大を提唱している。その上、経済面では、国有企業改革の推進、金融市場の自由化、知的財産権保護の強化、民間企業の公平な競争環境の整備が必要だとしている。
Ⅶ.「包括的な政治制度」への移行の鍵となる民主化と法治化
アセモグル教授とロビンソン教授が指摘しているように、民主化と法治化は、中国における「包括的な政治制度」への移行の鍵となる(注6)。このプロセスは、中国が抱える難しい課題の解決に寄与すると期待されている。
まず、民主化と法治化により、予測可能な事業環境が整備され、投資や技術革新、ひいては経済発展が促進される。また、透明かつ公平な法制度は市場の効率性を高める。
また、民主化を通じて国民の声を政策に反映することで、社会の安定性が高まる。法治の確立は、社会の公平性を向上させ、環境保護や汚職防止などの課題にも効果的に対応できる。
さらに、民主化と法治化は、中国にとって国際社会における信頼性と評価を向上させる重要な手段である。これにより、中国は他国との協力や貿易関係を強化し、より安定した外交関係を築くことができる。
このように、民主化と法治化を中心とする制度改革は、中国における持続的な経済発展を支える基盤となる。
野村資本市場研究所『中国情勢レポート』No. 24-04、2024年12月4日からの転載