「経世済民」の学問を求めて

関志雄
上席研究員

経済学者を目指した私

私は1957年に香港で生まれた。戦後の香港は大陸から流れてきた難民の避難所から出発し、国際金融・ビジネスセンターと言われるまでに発展した。私も大学を出るまでの22年間、アジアの奇跡の一部でもあった香港の高度成長期を見ていた。

公共団地育ちの子供として、私にとって大学進学は、出世するために通過しなければならない狭き門であった。大学に入ったときに、世の中の空気に流されて、経営学部を選んだが、一年生の時に初めて経済学に接し、特に、ケインズの学説に興味を持つようになった。

大学の一年目を終えた1976年の夏休み中に、初めて中国大陸を訪ねた時に、文化大革命を経て破綻寸前の中国経済を目の当たりにして、人生観が変わるほどの大きなショックを受けた。なぜ異民族の統治下の植民地で、自由放任という経済政策を採った香港が発展し、自力更生と共産主義の理想を掲げた中国が停滞したのか、理解できなかった。その答えはひょっとしたら、「経世済民」の学問である経済学にあるかもしれないと思い、大学の二年目には経済学部に転籍を申し込み、許可された。当時の香港では、経済学部は経営学部よりずっと人気が低く、経済学部の学生で経営学部に転籍したい人はたくさんいたが、逆はほとんどいなかったので、「変わっているね」とよく言われた。しかし、振り返ってみると、これは私が経済学者を目指した第一歩であった。

大学在学中の1976年に、北京では第一次天安門事件が勃発し、毛沢東が亡くなって間もなく、四人組が逮捕された。これを受けて、中国ではトウ小平の復活、さらには改革開放政策への転換といった一連の激変が起こった。当時の香港はイギリスの植民地でありながら、学生の関心は常に「祖国」に向いており、皆は毛沢東とマルクスの著作を熱心に読んでいた。私は、社会主義の実験にすでに30年間の歳月を費やしたにもかかわらず、中国が豊かになるどころか、むしろ日本や、NIEsの国や地域より、益々後れをとってしまっている当時の状況を見て、マルクス主義と毛沢東思想による中国の現代化に対して、もはや幻想を抱いてはいなかった。

経済学のあり方に失望

その代わりに、私はアジアの中で唯一経済発展を遂げ、経済大国となった日本に注目した。明治維新以来の日本の経験を学ぶために、日本留学を目指して、副専攻の分野として日本研究を選んだ。経済学者になりたいのなら、「アメリカに行きなさい」というのが大学の先生のアドバイスであったが、日本政府の奨学金にも恵まれ、大学を卒業すると同時に、1979年10月に東京大学に留学した。研究生と博士課程在学(当時5年一貫制)の期間を合わせて東大に6年半通ったが、理想とのギャップが非常に大きかった。特に経済学のあり方に対して、失望してしまった。

東大の大学院経済研究科では、授業は論文の講読が中心で、みなの関心はもっぱらアメリカの学界の最新流行事情であった。経済学の学科の編成は理論が中心で、実証分析が軽視されていた。国際経済や、労働、金融など、いわゆる応用の分野においてさえ、現実の経済問題を具体的に分析することはほとんどなかった。この状況は、京都大学の佐和隆光先生の著書『経済学は何だろうか』(岩波新書、1982)の中で紹介された寓話「エコン族の生態」で描かれる世界とほぼ一致していた。

すなわち、エコン族の階級は数理経済学、価格理論、国民所得分析、経済発展論、実証的研究という専攻分野の序列によって決まり、階級内の身分序列はモデル作りの腕前によって決められる。東大の院生たちも、その頂点を目指すべく、高度な数学を生かしたモデル作りには熱心であった。「しかし、作られるモデルの大半は、実際の役には立たず、神前に供える御供(専門誌上の陳列品)として用いられるにすぎない」(前掲)ということだ。

これに対して、私の勉強したかった経済発展論と実証的研究はいずれも最も下位にランクされていた。しかも、残念なことに、日本にいながら、日本の経済発展の経験について、体系的に学ぶことができなかった。結局私は、現実から遊離した理論のための理論には魅力を感じず、自分の研究課題を見つけることができないままに歳月が経ってしまった。修士論文も一応提出し合格したものの、振り返ってみると指導教官の代表作の英訳が私の大学院時代における唯一の業績となった。

エコノミストとしての再出発

1986年春、学位を取れないままに退学し帰国したが、仕事を見つけるのに一苦労した。大学の教職を求めようとしても、博士学位という最低の資格さえ満たしておらず、学者への道は完全に閉ざされてしまった。ようやく、香港上海銀行の調査部に就職したが、仕事の内容は途上国のカントリー・リスク調査が中心で、アカデミズムとはほど遠い世界であった。

幸い、日本のバブル景気と国際化のかけ声のお陰で、87年の夏、私は日本を代表する民間のシンクタンクである野村総合研究所にエコノミストとして採用され、再び東京に戻ってきた。大学院の閉塞感とは対照的に、当時の野村総研は活気の溢れるところであった。東京国際研究クラブなどの研究活動を通じて内外の第一線の研究者と議論することができ、また、機関投資家や経営者と接することにより、市場で問題意識を磨くこともできた。以来、敗者復活を目指して投資戦略に密着したマクロ調査をこなしながら、日本とアジア経済の相互依存関係に関する理論的・実証的研究を積み重ね、多くの著書・論文を内外に発表するようになった。特に「円圏」に関する一連の研究が認められ、96年2月にはめでたく母校の東京大学から経済学博士の学位を頂くことになった。

学位論文では、対ドル安定という為替政策(ドルペッグ)の下で、円ドルレートの変動が、アジア各国経済の不安定をもたらすことを理論と実証の両面から明らかにし、ドルペッグの代わりに、円にウェートを置く通貨バスケット制を提案した。当時、ドルペッグ政策がアジアの経済安定に寄与するというコンセンサスができていただけに、私の主張はなかなか理解されなかった。しかし、その後のアジア通貨危機の勃発によってドルペッグの脆弱性が露呈されることになり、通貨バスケットの提案も私が委員として参加した外国為替等審議会の答申「21世紀に向けた円の国際化-世界の経済・金融情勢の変化と日本の対応」(99年4月)に反映されるに至っている。

学位論文をベースにまとめた『円圏の経済学』は95年に日本経済新聞社から出版され、翌年、「アジア・太平洋賞」を頂いた。それが一つの区切りとなり、私は70年代末から改革開放の道を歩んできた中国経済に関する本格的な研究に取り組むようになった。その中で、為替政策やWTO加盟を始めとする「開放」の側面に関しては、従来の研究の延長線でも対応できているが、計画経済から市場経済への移行に象徴される「改革」の側面に関しては、新たなアプローチの必要性を感じていた。そのとき、私は中国における「新制度経済学」の台頭に注目するようになった。

新制度経済学との出会い

1970年代末に中国が改革開放政策に転じてから、中央計画による資源の配分を放棄し、市場メカニズムを導入することを梃子に、高度成長期に入っている。その結果、今日の中国は、私が初めて訪問した1970年代の半ば頃と比べて、まさに別の国に生まれ変わったと言っていいほどの変貌ぶりを見せている。特に国営企業の労働者をはじめ、計画経済の時代にあれほど怠け者であった中国人が、いつのまにか、日本人からも勤勉だと評価されるようになった。このことは、経済発展を考える際、いかに制度が重要なのかを物語っている。

こうした問題意識をもって、多くの中国の経済学者はコース(1991年ノーベル賞)の取引費用の理論やノース(1993年ノーベル賞)の新経済史の理論、ブキャナン(1986年ノーベル賞)の公共選択の理論などからなる新制度学派の手法を積極的に中国の経済改革の分析に応用するようになった。90年代の半ばには、その代表的論文をまとめた『中国の移行経済学』(盛洪編、1994)や、『中国の奇跡』(林毅夫ほか、1994)、『漸進改革の政治経済学分析』(樊綱、1996)などが、相次いで出版されるに至った。このように、中国の経済学界において新制度学派は、従来のマルクス政治経済学に取って代わって主流派となった。同アプローチは、「市場移行の経済学」を構築するときの共通のパラダイムとして定着しており、それをベースに「中国経済学派」が形成されつつある。

この市場移行の経済学をリードしている学者たちの大半は、1950年代に生まれ、文化大革命が終わった70年代後半以降に大学に進学した若い世代に属する。彼らの多くは文化大革命の時代に農村に「下放」され、虚しい青春時代を過ごした苦い経験を持っており、経済学を志した背景には、世界を変革するという明確な意識があった。欧米の大学に留学した「洋博士」のみならず、国内で高等教育を受けた「土博士」たちの活躍も目立つ。

進行中の計画経済から市場経済への移行に関する研究を通じて味わった知的興奮について、中国における制度経済学の総本山ともいうべき天則研究所の盛洪理事が、次のように語っている。すなわち、「われわれが制度変遷の時代に生きていることは、本当に幸せなことである。なぜなら、われわれは、(ダーウィンの進化論に例えれば)猿が人間に変わるその瞬間を目にすることができるからである」。実際、中国の経済学者たちは、政策提言や世論形成を通じて経済改革に直接的または間接的に参加しており、自らの使命は経済学を発展させることにとどまらず、中国経済そのものを発展させることであると自負している。彼らにとって、経済学は象牙の塔における空理空論ではなく、まさしく13億人の運命を左右する経世済民の学問なのである。

私の制度経済学との出会いは、香港大学の張五常 (Steven N.S. Cheung) 教授が80年代の半ば頃から発表した中国の経済改革に関する一連の著書に遡る。平易な中国語で書かれた「売桔者言」や「中国の前途」、「中国の経済革命」など、張氏の一連の著書は世界中の華人社会で広く読まれており、中国大陸の経済学者にも今も大きな知的刺激を与え続けている。90年代に入ってから、大陸発の関連文献にも接し、大いに感銘を受けた。さらに、近年、さまざまな研究交流を通じて、中国経済学派の担い手たちと意見を交換する機会が多くなった。中国における経済学の新潮流を少しでも日本の読者に伝えようと、私は98年に、林毅夫氏らの『充分情報と国有企業改革』の和訳(『中国の国有企業改革』、日本評論社)を監訳し、また現在、樊綱氏の著書を和訳する計画も進めている。

経済産業研究所で中国研究に専念

2001年に経済産業研究所に移ったことをきっかけに、私はついに長年の夢である中国研究に専念できる環境に恵まれるようになった。特に、自ら「比較制度分析」という研究分野を確立し、中国をはじめとする移行期経済に積極的に応用しようとしている青木昌彦所長から学ぶことが多かった。青木所長は日本を代表する経済学者でもあり、著書の中国語への翻訳はすでに七冊を数えるほど、その研究成果は中国でもよく知られている。

近年、中国経済が台頭してきたことで、その動向が日本でも広く注目されるようになった。しかし、中国の将来に関して、日本の世論が「悲観論」と「楽観論」の間で大きく揺れていることに象徴されるように、感情論が目立ち、冷静な分析が欠けているように思われる。日本の読者に中国経済の変貌を正しく理解してもらうために、私は2001年7月に経済産業研究所のホームページに、「中国経済新論」というコーナーを立ち上げた。「実事求是」(事実に即して事物の真相を探求すること、鄧小平による改革開放を象徴するキーワードの一つ)というコラムで日中関係を中心に時論を発表する一方、中国人研究者による分析や提言も積極的に紹介している。その内容は中国経済全般に及ぶが、「中国の経済改革」「中国経済学」「中国の新経済」「世界の中の中国」「日中関係」の五つの分野に焦点を当てている。世の中の中国ブームも手伝って、開設以来、ホームページへのアクセス数は日を追って増えており、専門家や政策当局者に限らず、幅広い読者層に支持されている。また、「実事求是」の文章を中心にまとめた「日本人のための中国経済再入門」が2002年10月に東洋経済新報社から出版された。

一方、私の生まれ故郷である香港は、97年7月にイギリスの植民地から中国の特別行政区に変わり、私は名実ともに中国人となり、また、東大の大学院留学から始まった日本生活も通算20年余りを数えるようになった。日中両国の言葉や文化を理解しうる立場から、その掛け橋になろうと常に心掛けているが、両国の国民の間に横たわる相互不信があまりにも深いだけに、「中立的」立場を取ろうとすると、常に双方からの批判を浴びることになる。私は、日本では「親中派」、中国では「親日派」と呼ばれたりするが、本当の意味での日中関係正常化がまだ達成されていない今、いずれも決して誉め言葉にはなっていない。しかし、21世紀のアジア地域の平和と安定は日中関係にかかっていることを考えれば、両国間の相互理解を深めることが非常に重要であり、自分の研究活動を通じて、少しでもそれに貢献したいと思っている。ノーベル賞に例えれば、私が目指しているのは経済学賞ではなく、平和賞なのかもしれない。

(1986年東京大学・大学院経済学研究科・博士課程修了)

2002-IV 『学士会会報』No.837に掲載

2002年10月23日掲載