政策はデフレ予想強めるか

小林 慶一郎
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

2008年の世界的金融危機の後、大規模な金融緩和と財政出動が世界中で行われている。にもかかわらず、低金利下での低インフレ(デフレ)というトレンドが続いている。今回は、人々のインフレ期待は政策当局の意図せざる方向に変化しているのではないかという仮説について論じたい。

先進国、中でも日本は、緩和型の金融財政政策のもとでデフレが長期的に続く「デフレ均衡」に陥っているとみるべきだろう。デフレ均衡は通常の経済モデルでは理解できない現象だ。

米ニューヨーク大学のジェス・ベンハビブ教授たちの02年の論文や18年の米ノースウエスタン大学のローレンス・クリスティアーノ教授と一橋大学の高橋悠太特任助教の論文などに見られるように、通常の経済理論では、緩和型の金融財政政策を続ければ、必ずインフレになるはずだからである。

緩和政策が有効な理由は次のように説明できる。通常の経済モデルでは「合理的な個人は資産や貨幣を無駄に残さない」という「横断性条件(TVC)」が成立する。大まかに言うと、政府債務(貨幣を含む)であれば「無限に増えることはない」という意味だ。

緩和的な金融財政政策を続けているのに物価が上がらなければ、政府債務の実質価値は増え続ける(TVCが破れる)。政府債務は家計にとって資産だ。資産が無限に増えれば、家計の消費需要も無限に大きくなる。一方で、消費財の総量は有限だから、物価が上がらなければ需要が供給を限りなく超えてしまう。よって、緩和政策はインフレ率を必ず上昇させる。これがデフレ脱却についての通常の経済理論である。

ちなみに、00年代初頭の日本のデフレに対する処方箋は、全てこのロジックにのっとっていた。例えばニューヨーク市立大学のポール・クルーグマン教授の1998年の論文、米連邦準備理事会のベン・バーナンキ元議長の00年の論文、前述のベンハビブ氏たちの論文などである。ところが、日米欧の過去10年間の経験は、これらの処方箋が効かないことを示唆している。

日本のインフレ率
(消費者物価指数)
図:日本のインフレ率(消費者物価指数)
(出所)総務省統計局
米国のインフレ率
(消費者物価指数、点線は金融危機の前と後の平均値)
図:米国のインフレ率(消費者物価指数、点線は金融危機の前と後の平均値)
(出所)米労働省労働統計局

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長期のデフレ均衡という現象を理解するためには、「人間の選好は不変」としてきた通常の経済学のモデルではなく、「人間の選好は可変的」という考え方に立つことが必要なのではないか。なんらかの環境変化で人間の効用関数が変わるなら、人間が過剰な「貨幣愛」を持つようになる可能性がある。貨幣愛とは、本稿では「貨幣や国債など金融資産を保有することから感じられる(根拠のない)効用」とする。これは一種の「バブル」あるいは幻想である。

人々が金融資産に価値を感じるのは、通常は将来の財・サービスの消費を可能にしてくれるからだ。しかし、例えば資産保有が社会的なステータスを表現するシグナルとなっている社会では、人々は金融資産の保有に社会的「価値」を感じる(米ペンシルベニア大学のハロルド・コール教授たちの92年の論文)。このモデルは、社会構造によって人間の選好が変わり、過剰な貨幣愛が発生する一例である。

筆者が最近研究しているモデルは、人間は「自分の子孫が貨幣愛を持つ」という世代間の期待によって、自分自身も資産に過剰な価値を感じるようになるというものだ。当人は資産保有から効用を感じなくても、子孫に対する利他性を持つので、子供たちに残すために資産を過剰に蓄積しようとするのである。

社会的ステータスや世代間の期待からバブル的な貨幣愛が生じると、資産(政府債務)が過剰に蓄積されてしまう。資産が増えても財・サービスの購入には使われず、無限に蓄積されてデフレが続く(TVCが破れたままになる)。こうして長期的なデフレ均衡が発生するわけだ。ちなみに、名古屋大学の斉藤誠教授も今年の論文でデフレ均衡の理論を構想していて、そこでもTVCは一時的に破れるとされている。また、大阪大学の小野善康特任教授も01年の論文で貨幣愛を提唱しているが、貨幣愛の発生理由の説明はない。

デフレ脱却のための緩和的な政策は、デフレの下であえてTVCを破ることによって、インフレを実現させようとする政策だった。しかしそれらの政策は意図に反して、TVCが破れたままで成り立つ均衡を実現するように人々を仕向けたのかもしれない。

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つまり、政策に合わせて世代間の期待などが変化し、バブル的な貨幣愛が生み出され、その結果、TVCが破れたまま成り立つデフレ均衡が実現したのではないだろうか。

そこでは実質金利が市場の力によってプラスの値に落ち着くので、名目金利をゼロにするゼロ金利政策を続けると、インフレ率+実質金利=名目金利というフィッシャー方程式により、インフレ率がマイナスになってしまう。金利がゼロなら預金者は金利収入がなくなるのでお金を消費に使おうとしなくなり、物価が下がる、というメカニズムである。こうして政策当局者の意図に反して、長期的デフレが生み出される。

ゼロ金利政策がデフレを招くというネオ・フィッシャー仮説(米スタンフォード大学のジョン・コクラン上級研究員の17年の論文、米コロンビア大学のステファニー・シュミット=グロエ教授とマーティン・ウリベ教授の17年の論文など)は、中央銀行からは真剣に取り合われていない。その理由は「均衡では必ずTVCが成立する」という信念が、経済学者や政策実務家に共有されているからだ。

だが効用関数になんらかのバブルが発生するならば、均衡でTVCが破れることもあり得る。するとゼロ金利政策がデフレを招くというロジックは否定できなくなる。人間の効用関数が柔軟に変化するという経済像は、経済を予測可能な機械的システムとみなす現代の常識に異を唱えるものかもしれない。

長期デフレの後で急に貨幣愛のバブルが崩壊し、予測不能な高インフレが起きてもおかしくはない。さらに言えば、世代間の期待が効用にバブルを生むメカニズムは、人が抱く信条や道徳的な価値の形成にも関わっているかもしれない。人がなにかの理念に価値があると信じるとき、将来世代も同じ価値を認めるはずだという期待が、信念の支えとなっている。

次世代についての期待が正しいかどうかは現世代の人には分からないので、この期待は反証不能である。よってその期待を不合理だとして棄却はできない。一方、自分がその価値を信奉するからこそ、子孫もまたそれを信じるだろうという期待が生まれる。

世代間の循環論法が、効用関数のバブルとして人の思想信条を創り出す。このように考えると、経済とはいかにも人間的で予測不能な、一筋縄ではいかない存在に思えてくる。

2019年6月12日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2019年7月1日掲載

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