『危機』が変えた経済モデル

小林 慶一郎
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

2008年9月15日にリーマン・ブラザーズが経営破綻し、世界的な金融危機が発生してから今年で10年となる。米ノースウエスタン大学のローレンス・クリスティアーノ教授らは今年夏の「DSGEについて」という論文で、危機の前後でのマクロ経済学モデルの変化を回顧している。DSGEとは、現代のマクロ経済学の標準的なモデルである「動学的確率的一般均衡モデル」の略称である。

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「嵐の前」すなわち金融危機の前のDSGEモデルは、理想的な完全競争市場を仮定し、そこに「価格の硬直性」を仮定することで、金融政策の効果が表れるとした。このタイプのDSGEモデルは、ケインズ経済学をモデルにしたものという意味でニューケイジアン・モデルといわれ、危機前には金融政策の分析に大学の経済学者の間で広く用いられた。

これらの分析は、世界金融危機を事前に予測できなかった、と批判される。当時のDSGEモデルは金融システムをほぼ無視していたことが理由だが、クリスティアーノ教授らは、08年以前の米国経済のデータからは金融システムは重要でないように見えたので、それを無視したのは無理もないと弁明している。「100年に1度の危機は対象外」ということだ。

米コロンビア大学のジョセフ・スティグリッツ教授は18年の論文で「重病の患者がやってきたときに、医者が『ごめんね、私は風邪しか扱わないんだ』と言ったらどう思われるか」と述べている。クリスティアーノ教授らの弁明は、スティグリッツ教授の批判に対する有効な反論になっていないように思われる。

「嵐の後」すなわち金融危機後のDSGEモデルは、金融危機を予測できなかった反省から、「銀行システム」や「ゼロ金利制約」を次々と導入し、発展を続けている。しかし主流派の流儀はあくまで、人々がすべての情報を使って将来を合理的に予想するという通常の「合理的期待」の枠内での工夫であり、そのことに不満を感じる者もいる。その点は後述する。

米ニューヨーク大学のマーク・ガートラー教授と米プリンストン大学の清滝信宏教授は15年の論文で、DSGEモデルの世界に銀行システムを導入し、銀行取り付けが起きる可能性を示し、金融システムの脆弱性を分析した。預金者が一斉に預金を引き出すと銀行の現金準備が足りなくなり、破綻する。これが銀行取り付けだが、リーマン・ショックのような急激な金融危機は、銀行取り付けの一種としてモデル化できる。

危機後は各国が金融緩和を続け、世界的に低金利が常態化している。名目金利はゼロ以下にはならないという「ゼロ金利制約」に研究者の注目が集まっている。現金は名目金利がゼロだから、中央銀行が名目金利をマイナスにしようとしたら、人々は預金を引き出して現金を保有することで、金利を少なくともゼロにできる。そのため、中央銀行は名目金利をゼロ以下にできないというゼロ金利制約の壁に突き当たるのである。

経済がゼロ金利制約に突き当たると、それまでなかったことが起きるようになる。ゼロ金利制約と金融によるゆがみが組み合わさることで、不況が極端に長引くことが示される。これは金融危機後の世界経済の低迷を説明する要因かもしれない。またゼロ金利制約の下では、財政政策が強力に効くことがDSGEモデルから予見される。米国での財政政策の拡大の是非を巡る議論と、学界の研究は大きく関連していたのである。

さらに、ゼロ金利制約の下では、金融政策としてフォワードガイダンス(将来の指針)が強力に効きすぎることがモデルから予見される(これを「フォワードガイダンス・パズル」という)。情報の伝達にコストがかかるモデルでは、このようなパズルは起きないことが示される。

このようにゼロ金利制約はDSGE研究の最新のテーマである。日銀は約20年にわたり、理論上まだ正解が知られていないゼロ金利政策を手探りで進めてきたことになる。

金融危機後のDSGE研究では、金融のゆがみやゼロ金利制約などの非線形な変動要因は取り入れられたが、「なぜ危機を起こすほど大きなショックが生まれたのか」あるいは「なぜ金融システムの脆弱性が蓄積されたのか」という危機の原因は依然として不問に付されている。

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現実には、不動産や株式などの資産バブルの膨張がマグマとなり、バブル崩壊によって危機が発生したというのが世の中の通念だろう。しかし、このような通念を描写するマクロ経済学のモデルはできていない。17年10月17日付本欄で紹介したようにバブルの理論はあるが、そこでのバブルは合理的バブルと呼ばれ、経済のゆがみを拡大するものではなく、現実のバブルとはかけ離れている。

貨幣供給が増えているのにデフレが続くという長期デフレの現実を説明できるモデルもなかった(13年6月17日付本欄)。デフレは貨幣の価値が上昇することだから、長期デフレは「貨幣についてのバブル」だと解釈できる。

合理的期待の枠組みでバブルのモデルが作りにくいのは、「横断性条件」があるからである。横断性条件とは「合理的な人は(遺産を残す相手がいなければ)死ぬまでに財産を使いつくすはずだ」という条件である。(図参照)合理的な個人は死ぬ時に財産を使い残して無駄にするはずはない、ということである。この横断性条件が成立している経済では、膨張し崩壊するバブルは存在できないことが示される。

図:「横断性条件」を満たすとは?
図:「横断性条件」を満たすとは?

横断性条件は、個人の合理性が極端に強いことを想定する超合理性ともいうべき仮定である。今日の消費や貯蓄を、30年先の財産が無駄にならないように決める、ということである。現実の世界に、そのような人間はいないだろう。そこで個人の合理性の仮定を緩めて「限定された合理性」をモデルに導入することも試みられている。名称だけ例示すると、k-レベル思考やロバスト・コントロールなどの手法が提案されている。

なかでもプリンストン大のクリストファー・シムズ教授は、人間の合理性を外から制限するのではなく、根本的な合理性は維持しながら、人々が異なる意見を持つことを説明する「合理的不注意」の理論を提唱している。人間が情報を処理する能力は有限であり、情報を処理するには精神的なコストもかかるので、膨大な情報に接しても、一部分の情報は無視することが合理的な判断となる。これが合理的不注意である。

さらに人によって関心事項も違うので、同じ情報に接しても、無視する情報は一人一人異なる。こうして同じ情報がすべての人に与えられても、人は合理的に情報の一部を無視するので、人々の間に意見の不一致が残り続ける。

シムズ教授は、将来のインフレ期待について人々に意見の不一致があると、金融緩和によって投資が増え、景気が良くなることを示している。また、インフレの原因が総需要の過熱だとするニューケイジアン・モデルの根本的な在り方を批判し、むしろ合理的不注意による意見の不一致がインフレの要因として重要ではないかと強調している。

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合理的不注意の理論などによって横断性条件を緩和できれば、バブルの発散・崩壊や長期デフレ均衡の存在も説明できるかもしれない。金融危機後10年たっても、マクロ経済学研究の課題は大きい。

2018年10月10日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2018年10月23日掲載

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