インフレ誘導 政府?日銀?

小林 慶一郎 プログラムディレクター・ファカルティフェロー

筆者が主催者の1人としてかかわっている年次研究会「マクロ経済理論と政策」が5月29〜30日、キヤノングローバル戦略研究所で開催された。今年は「21世紀の金融政策」を共通テーマとして、非伝統的金融政策の意義や今後の展望について内外の経済学者が研究発表を行った。日本銀行や米連邦準備銀行の研究者も参加し、活発な議論が交わされた。

会合では、借金の少ない企業は金融緩和に反応して投資を増やすが借金の多い企業は反応しないとの主張や、いま日銀が行っている「長短金利操作付き量的質的緩和」でインフレ率は完全にコントロールできるとの主張など、様々な学術研究が発表された。

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中でも目を引いたのが「物価水準の中央銀行理論」と題して、「政府の財政政策ではなく、中央銀行の金融政策が物価水準を決定する」と主張するイタリアの大学、LUISSのピエパオロ・ベニー二ョ教授の研究である。この研究は、最近日本でたいへん注目されている「シムズ理論」に真っ向から反論する内容になっているからだ。

米プリンストン大学のクリストファー・シムズ教授は日本について「財政収支を政府が意図的に悪化させれば、デフレを脱却し、マイルドなインフレを実現できる」と提言している。日本では、日銀の金融政策によってはデフレ脱却をまだ実現できていない。シムズ発言を聞いて「日銀にデフレ脱却ができないなら、代わりに政府が財政規律を緩めることによって実現できるのではないか」という期待が政界などで一気に高まった。

ベニーニョ教授の理論は、「政府にデフレ脱却ができるなら、そもそも日銀にもデフレ脱却ができていたはずだ」という含意を持つ。日銀がダメなら政府がやれば良い、というのは安易すぎる、と戒めているのだ。

シムズ理論は「金融政策だけでは物価水準は決まらず、財政政策が決める」という「物価水準の財政理論(FTPL)」に基づいている。シムズ教授はFTPLの提唱者の1人である。このFTPLを図の数式を用い、「現在」と「将来」の2時点しかない経済で説明する。簡略化のため金利はゼロとした。

図:「シムズ理論」と「ベニーニョ理論」
図:「シムズ理論」と「ベニーニョ理論」

現在において、政府と日銀を合わせた「統合政府」の債務(国債と日銀券)がすでに存在しているとする。この名目額をBとする。統合政府は債務Bを、将来の税収と貨幣発行益(額面と製造費用の差額)を支払うことで返済しなければならない。将来税収と将来の貨幣発行益の合計(財政余剰)の実質額をsとする。将来の物価をPとすると、P×sが将来の税収と貨幣発行益の名目額となる。現在の債務がBで、将来の返済額がPsであり、この2つが一致することになる。つまり、図の①の式が成り立つ。

ここで、債務Bは現在においてすでに確定していて変えることはできない。将来の財政余剰sを統合政府が決めると、①の関係式から将来の物価Pが決まるのである。FTPLは「sを決めるのは政府の財政政策だから、物価Pは財政政策で決まる」とし、「財政収支を適度に悪化させる(=sを小さくする)」と政府がコミット(約束)すれば、それで物価Pが上昇し、インフレが起きると主張する。これがシムズ教授の提言の根拠である。

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対してベニーニョ教授は、いくつか条件が整えば、財政当局の助けがなくても中央銀行が物価水準を決定できると論じた。ポイントは、統合政府の財政余剰sを政府の分(将来の税収t)と中央銀行の分(貨幣発行益などm)に分けて考えることである。つまりs=t+mと書き換えて、図の②の式が成り立つ。

ここでmは日銀から政府への納付金を指す。日銀は貨幣発行によって得た利益(貨幣発行益)などの剰余金を政府に納付している。

m=0に固定する政策レジーム(枠組み)を考えてみよう。これは日銀が新規の通貨発行をやめ、市中の供給量を一定に保っているケースに相当する。このときs=tなので、sを変えるのは日銀ではなく、政府の財政政策tである。すると物価Pは財政政策で決まり、FTPLの主張と一致する。財政政策が主導して物価を決め、中央銀行がその物価と矛盾しないように金融政策を運営するケースなので「財政主導/金融追随」のレジームといえる。

次にt=0の政策レジームを考える。この場合、s=mなので中央銀行がsを決定できる。貨幣供給量を増加させると貨幣発行益が得られ、中央銀行の収入mになるからである。物価Pを決めるのは、財政ではなく、金融政策(中央銀行の貨幣発行量の決定)である。これは金融政策が主導して物価を決め、政府がその物価と矛盾しないように予算制約を守るケースなので「金融主導/財政追随」のレジームといえる。

このように「財政主導/金融追随」という政策レジームを採用した場合にはFTPLのいうとおり財政が物価を決めるが、「金融主導/財政追随」を採用した場合には中央銀行が物価水準を決めることになる。また、中央銀行が高い独立性を持てば「金融主導/財政追随」レジームになるとベニーニョ教授は主張している。中央銀行の独立性が高ければ、財政規律を緩めなくても、金融政策で物価水準を上げられることになる。

ベニーニョ理論は「政府がインフレを起こせるなら、同じ理屈で、日銀がインフレを起こせたはずだ」という。日銀の金融政策でデフレ脱却が達成できないからといって、それなら政府が財政収支を悪化させればいい、という単純な処方箋は成り立たない。この研究は、財政政策に頼らなくても中央銀行が物価水準をコントロールできるし、中央銀行による金融政策は財政から独立した政策として考えるべきだという近年の標準的な経済学のスタンスを引き継いでいるのである。

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ただし、ベニーニョ教授の理論は「日銀にも政府にもインフレが起こせない」という可能性を否定するものではない。日本で長期デフレが続く理由を説明する理論でもない。日本の長期デフレの要因については、シムズ理論でもベニーニョ理論でもない、なにか別の理論で説明することが必要なのである。

また、2つの理論のメカニズムでインフレが起きれば、政府債務の負担は目減りする。しかしそれは、景気が良くなって需要が高まるからインフレ率が上がる、という夕イプのデフレ脱却とは違う。政府債務を軽減するインフレの作用は、インフレが「税」であるという性質を表している。インフレは国民が持つ現金や預金の価値を目減りさせるので、資産への課税と同じ機能を持つからだ。

シムズ教授のFTPLではインフレはもっぱらこのインフレ税として作用し、その税収で政府が債務を返済するのと同じことが起きでいる。景気を良くする効果(生産や雇用を増やす効果)はシムズ理論では示されない。シムズ教授のFTPLでもベニーニョ教授の理論でも、インフレ税によって政府債務は軽減されるが、そのようなインフレが景気を良くするのかどうかについては沈黙している。インフレの景気拡大効果が極端に大きくならなければ、確実に言えることは、インフレによって国民の資産が目減りするということである。

2017年6月15日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2017年6月27日掲載

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