長期停滞 理論と現実に差

小林 慶一郎
ファカルティフェロー

欧州中央銀行(ECB)が1月に量的緩和の開始を決定し、欧州のデフレ懸念の深刻さが改めて印象付けられた。日本型の長期デフレに落ち込む懸念が続いている。マネーの供給を増やせばデフレから脱却できる、という考え方は「短期」のデフレなら成り立つかもしれないが、10~20年の「長期」デフレを同じ考え方で捉えていいのだろうか。

米欧経済の長期的悪化を懸念する議論は「長期停滞(Secular Stagnation)」論や「デフレ均衡」論と呼ばれる。内容はほぼ同一だが、少し文脈が違うところもあるのでそれぞれ説明したい。

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まず長期停滞論は、1938年の米国経済学会の講演でアルビン・ハンセン会長(当時)が唱えた、大恐慌後の米国経済の停滞は平永久的に続くという仮説である。実際は第2次世界大戦の特需で米国経済は急成長し、仮説は忘れられたが、2013年に米ハーバード大学のローレンス・サマーズ教授が米欧の現状を論じるために持ち出し、再び脚光を浴びることになった。

現在論じられている長期停滞論には、サプライ(供給)サイドの議論とデマンド(需要)サイドの議論がある。

供給サイドの議論は、12年に米ノースウエスタン大学のロバート・ゴードン教授が唱えた仮説である。先進国では過去200年、産業革命以来の継続的な技術進歩によって年2%程度の経済成長が実現している。しかし近年の情報革命のインパクトは思ったより小さく、今後の技術進歩は停滞し、経済成長が止まると論じた。これに対し、新しい基幹技術が社会を変えるには数十年かかるから、情報革命の効果は今後もっと大きくなる、という反論もある。

需要サイドの議論を主張したのがサマーズ教授である。技術進歩の速度が落ちなくても何らかの理由で総需要が長期的に収縮することがあるという。昨年は欧州経済との関連で経済学者の注目を集め、論争をまとめた電子書籍が英国の経済政策研究センター(CEPR)から出版された。

論争でサマーズ教授の説を厳密な理論モデルとして提示したのが、米ブラウン大学のガウティ・エガートソン准教授らの14年の論文である。賃金の粘着性が高い経済で「借り入れが制限される」か「人口が減少する」という状態が長期的に続くならば、経済は長期停滞に陥る、と理論的に示した。この状態では名目金利はゼロになり、デフレが続く、とも主張している。

エガートソン氏らは金融政策よりも財政政策が効くとして、量的緩和政策の効果は分析していない。そもそも、彼らのモデルでは「現金」という存在が省略されている。それでは現金の量を増やす量的緩和を分析できない。

この点をさらに考えると、彼らのモデルは長期デフレ現象を正しく説明できているのか、という疑問が湧く。モデルに現金があると仮定すると、矛盾が生じるのである。

ゼロ金利でデフレが続く長期停滞の経済では、現金が一定量であれば、物価の下落とともに現金の価値(購買力)は上がっていく。モデルでは老人が若者に現金をすべて渡して財を買うはずなので、現金の購買力が上がれば老人の消費量は増える。つまり現金の名目量が一定(または増加)ならば、デフレが続くと現金の購買力が上がり、結果的に消費が増えて好況になる。

これは量的緩和政策が効果を持つことを示すようだが、そうではない。貨幣量が一定であっても好況になるなら、量的緩和でなく通常の金融政策でもデフレから脱却できる。言いかえると、現金を省略した彼らのモデルでは長期停滞が起きるが、そこに現金を導入するだけで、長期停滞は起きなくなるのである。

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長期停滞と同じような概念としてデフレ均衡がある。最近は日銀の中曽宏副総裁の講演などでも使われているので、いまやデフレ均衡は日本の現状を表す言葉として確立しているかのようだ。しかし経済学が現実の長期デフレを正しく説明できているかというと心もとない。

デフレ均衡の標準モデルはニューヨーク大学のジェス・ベンハビブ教授らの01年と02年のモデルである(13年6月の本欄で紹介「長期デフレ 解明は途上」)。10年に米セントルイス連銀のジェームズ・ブラード総裁が論文で紹介し、一気に経済論壇で標準モデルの扱いを受けるようになった。

ブラード総裁は量的緩和政策が有効だと主張したが、その根拠は「貨幣量が増えればインフレ期待が変わるだろう」という推測と、米英の09~10年の経験であり、量的緩和の有効性を理論的に示しているのではない。

このモデルでも貨幣量が一定ならデフレは起きない。貨幣が減少するときにのみ長期デフレは続くのである。ベンハビブ氏らの02年の論文では、均衡の貨幣量(正確には貨幣と政府債務の合計)は名目金利を下回る率でしか増加できないことが示されている。中央銀行が名目金利ゼロの政策を続けると経済はデフレ均衡に陥るが、そのとき貨幣量は減少することになる。

このモデルも、エガートソン氏らのモデルと同じく貨幣量が一定のままデフレが続けば貨幣の購買力が上がり、消費が増えることになる。消費が低迷するデフレ均衡に陥るには、貨幣量の減少が大前提になるのである。

こうしたモデルは、日本の長期デフレや、デフレ懸念におののく欧州の現状を説明できるだろうか。

日本では貨幣量(通貨供給量)が増え続けるなかで、15年以上にわたりデフレが続いた。図から明らかな通り、通貨供給量の指標の1つである「M2+CD」は大きく増加している。モデルが正しければ、貨幣量が増え続けていた日本はインフレ傾向に戻っていたはずである。ところが現実はデフレが続いたのであり、モデルと矛盾する。

図:日本では貨幣量が増える一方、貨幣の流通速度の低下が続く
図:日本では貨幣量が増える一方、貨幣の流通速度の低下が続く
(注)内閣府、日銀の統計から作成。流通速度は「名目GDP/M2+CD」、旧基準の統計と段差修正のうえ接続している

逆に、貨幣量を増やしてもデフレから脱却できないという日本の新モデルが仮に今後作られ、それが正しかったとすれば、量的緩和は効果がないと理論的に示すことになってしまうかもしれない。

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ベンハビブ氏らのモデルなどの1つの大きな問題は「貨幣の流通速度」が一定だと仮定されていることである。中銀が発行する現金通貨は銀行預金のかたちに変換されて経済を循環するが、そのスピードのことを貨幣の流通速度という。流通速度が一定の経済では、中銀が供給する貨幣量が増えれば比例して物価も上がる。現在のマクロ経済学の標準的モデルでは、ベンハビブ氏らの論文同様、流通速度は一定と仮定されている。

しかし、何らかの理由で貨幣の流通速度が貨幣量の増加に反比例して低下すれば、いくら中銀が貨幣をばら撒いてもデフレから脱却できない。図に示した通り、日本はまさにこの例に該当する。

近年、カナダ・トロント大学の石寿永教授ら(06年)、シカゴ大学のフェルナンド・アルバレス教授ら(09年)など、貨幣の流通速度の変化を説明しようとする研究が出てきた。アルバレス教授らの研究を応用した日銀の須藤直氏の11年の論文は、信用収縮が日本で貨幣の流通速度を低下させたと指摘している。

ゼロ金利下での量的緩和に対して、流通速度がどう反応するかが詳しく解明されれば、政策効果を予想できる。しかし、それはまだ完全には解明されていないため、量的緩和政策の効果も理論的には判然としないのである。

欧州でも、流通速度がECBの量的緩和に反比例して低下すればデフレになる。欧州経済の先行きは決して楽観できないと言うべきであろう。

2015年2月16日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2015年2月25日掲載

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