世代超えた協調は可能か?

小林 慶一郎
ファカルティフェロー

近年、財政再建や地球温暖化、原子力発電など、世代を超えた超長期の時間軸を持つ政策課題が増えている。

米アトランタ連邦準備銀行のR・アントン・ブラウン氏らの試算では、日本が厳しい増税と歳出削減を今すぐ始めたとしても、公的債務の国内総生産(GDP)比率を安定させるのに150年近くかかる。温暖化ガスの排出抑制も、環境への効果が明らかになるのは100年以上先だ。放射性廃棄物の最終処分場も、技術的には今すぐ建設可能だが、政治的に立地を決定できないのが現状である。多大な政治的コストをかけて建設しても、利益を得るのは数十年以上先の世代で、我々の世代は恩恵を感じにくい。

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こうした超長期の政策課題について、経済学的な研究も進んでいる。鈴村興太郎早稲田大学教授編「世代間衡平性の論理と倫理」(2006年出版)で論じられているように、超長期の政策を評価する前提として、世代間の公平性(衡平性)とは何か、を探究する研究が厚生経済学の一分野として発展している。

米ボストン大学のローレンス・コトリコフ教授らは1992年の論文で世代ごとに政府に対する支払いと政府から受ける給付の差額を計算する「世代会計」の考え方を提唱し、広く経済分析に使われるようになった。世代会計により、世代間の所得移転による格差を定量的に比較できる。

政策提案としては、ポール・ドメイン米科学振興協会フェローが86年の論文で、将来世代の権利を政治に反映するため子どもに投票権を与え、その権利を親が代理で行使するというドメイン投票法を提案した。一橋大学の国枝繁樹准教授も2004年の経済産業研究所ワーキングペーパーで、世代間公平確保基本法の制定などを提案している。

ただ、これらは超長期の政策の「実現可能性」を理論的に分析したものではない。本稿では、そもそも世代を超えた長期の政策が成立し得るのかを考えてみよう。

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例として財政再建を世代重複モデルで考えよう。現在の世代(親世代)が増税など一定のコストを払って財政再建プロジェクトを開始すると、将来世代(子世代)が親世代が死亡した後、経済混乱の回避というリターンを得る(図参照)。図ではコストが10、リターンが20である。両者を相殺した利得は10(=20-10)なので、利得の一部を親世代にうまく配分できれば、親世代は自発的に財政再建を実行する。問題は、このような世代間の所得移転をともなう協調が可能かどうかである。

図:2世代にまたがる財政再建
図:2世代にまたがる財政再建

「親世代が現時点で10のコストをかけて財政再建を実行したら、子世代が近未来に15の所得を親世代に与える」というプランを考える。この通りにいけば、親世代と子世代はともに5の利得を得る。このプランのもとで「現在」の時点で10のコストをかけて財政再建が実施されたら、「近未来」の時点で子世代の意思決定はどうなるだろうか。

近未来の時点では、すでに財政再建は終了し、子世代のリターンは20で確定している。子世代が親世代に15を所得移転すれば、子世代の利得は5(=20-15)に減る。一方、子世代が約束を破って親世代に何も与えなければ、子世代の利得は20(=20-0)となる。子世代が利己的かつ合理的であれば、当然、利得20を選択する。つまり事前に決めたプランを変更して親世代に所得移転をしないことが、近未来の時点で子世代にとって最適な選択となる。

これは事前に合理的な行動と、事後に合理的な行動が一致しない典型的な「時間不整合の問題」である。現時点で財政再建を実行しても、親世代は近未来に子世代から何ももらえないことを、現時点で合理的に予想する。すると現時点で財政再建を実行しないことを選択する。こうして世代を超えた財政再建プランは最初から実行不可能になる。これを「世代間協調の不可能性」と呼ぶことにしよう。

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こうした議論は新しいものではなく、ポール・サミュエルソンが1958年の論文で示した世代間の所得移転問題とほぼ同じである。サミュエルソンは「子供が老親を扶養するか」という問題を考えた。彼は、前述の議論と同じロジックを使い「老親の扶養問題が一回限りのゲームならば、合理的な子どもは親を扶養しない」とした。

しかし老親の扶養問題は、各世代において永遠に繰り返す「繰り返しゲーム」である。サミュエルソンはこの場合は老親を扶養することが子どもにとって合理的な選択となる制度はつくれるとした。

サミュエルソンが示したように、繰り返しゲームの構造がある場合は、世代間の協調は比較的簡単に実現できる。また、これまでの歴史で、人間社会が直面してきた世代間の政策課題は、繰り返しゲームの特徴を持っていた。

問題は、新しい技術や制度によって、繰り返しゲームではない政策課題が出現したことである。実際、財政再建は繰り返しゲームではなく、一回限りのゲームである。財政悪化は手厚い社会保障の普及という歴史上初めてのできごとが主因だ。地球温暖化や使用済み核燃料の処分は、いずれも現代の新技術が引き起こした問題で、これも一回限りのゲームである。こうした政策課題では「世代間協調の不可能性」が生じる。

この難題は、我々自身が過去200年の近代化の過程で意図せず招きよせた問題ともいえる。「近代合理主義が進めば、世代間のコミットメント(約束)は確保できるはずだ」という素朴な思い込みのもとで超長期の持続を前提とした財政や社会保障制度がつくられた。しかし各世代が利己的かつ合理的であるからこそ、社会が発達しても世代間協調は不可能なのである。

一回限り、かつ超長期の政策を成功させるには、各世代が利己的合理性を超えた行動をしなければならない。それには個人の合理性を超えた「宗教」や「伝統規範」の力を借りる必要があるが、合理性を旨とする現代社会では難しい。だとすると、我が国で財政再建が実現する見通しはきわめて厳しいといえる。

同様の困難については一橋大学の小塩隆士教授が、人口減少と民主主義の機能不全が相互に増幅する「民主主義の生物学的限界」という論点を14年の著書「持続可能な社会保障へ」で提起している。

今後はこうした問題を回避する制度設計が必要ではないか。例えば財政膨張の一因である超長期の年金制度は、受給者の利益は大きいが、人口構成が変化すると、制度を維持するために根本的な改正が必要となり、「世代間協調の不可能性」の問題が起きる。掛け捨て保険のような年度ごとの再配分と積み立て方式を組み合わせた年金なら、給付は変動するが、こうした問題に悩まされることはない。

そもそも「世代間協調の不可能性」を招くような制度や新技術は自制することが必要なのかもしれない。これは技術や社会制度の合理的な発展を制限しようという「非合理主義」ではない。ある技術や制度を普及させるか否かを判断する際に、それらを運営する「人間社会の能力の限界」についての合理的かつ科学的な判断を加味したうえで決めるという、さらに高次元の合理主義を確立することが求められているのである。

2014年6月23日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2014年7月1日掲載

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